Mrs Reikoのルーマニア ブルガリア紀行

5月25日

部屋に入ると直ぐ、3時のWake-up callを電話で頼んだ。コンピューターの声が返ってくる。

“Three hour.” 

ナンダ、three hour ?3時間じゃないよ、Three o’clock 3時と言ったのに。

ブルガリアではそういう風に言うのかと思って、ベッドに入るが何となく不安で、寝付かれない。

枕元の時計の目覚ましもセットはしたものの、頼りない。

仕方ない。荷物を整えた後、直ぐ出て行かれるよう服を着たまま横になる。

アンドレがロビーに来た時、私が居なければ電話をかけてくるだろう。

なかなか寝付けず、それでもトロトロしたのだろう、ハッと眼が覚めたら2時半だった。

それから眠れず、3時にはロビーに下りていった。広いロビーを使用人たちが掃除している。

カウンタ-の女が驚いて,こんなに早くどこへ行く、と聞く。

3時45分に迎えが来る筈だから、ルームサーヴィスの勘定も払わねばならないし、と言うと、飛行機が6時20分発なら2時間前でなく、1時間前に行けば充分だったのに、と言う。

まだ30分以上あるからもう一度部屋に帰って寝たらと、言ってくれたが、どうせ行っても寝られないと、ロビーの椅子に座って眼をつむる。

アンドレたちは本当に3時45分に来るだろうか、と考える。実は、お金を封筒に入れる時大分考えたのだ。ツアーの案内書には、ガイドには40ドル、運転手には30ドルが妥当、と書いてあった。

普段ケチな私は旅をすると、Big tipperになるきらいがある。

まじめに労働する人たちがいじらしくなり、ついチップを弾んでしまうのだ。

50レイの、プラスチック紙幣。そうなんだ。ルーマニアの紙幣はプラスチックでできている。アンドレがプラスチックは良いよ、洗濯がきくからと、言って私たちを笑わせたものだ。

それを、3枚ずつ封筒に入れる時、考え込んだ。150レイは50ドル強だ。

ガイドも運転手も同じ額にした。運転手だって随分働いているんだ。

ロビーの椅子で使用人が働くのを見ながら考える。あれは人よりも多かったのだろうか、少なかったのだろうか。

一人で賭けをした。

もし少なかったらアンドレたちは、“寝坊した、”とか何とか言って、仏頂面で遅れてくるだろう。多かったら機嫌よく定刻に来る筈だ。

私一人のために真夜中に起きてくる人たちを、ないがしろにすることはできない。

また有り金全部、レイとユーロを小銭も入れて、二枚の封筒に入れた。

一人分10ドル位になる。

“ハロー、”という声でハッと眼が覚める。いつの間にか眠っていたものと見える。

アンドレであった。時計を見ると3時46分。早朝にも関わらず、機嫌の良い顔だ。

彼と共に外に出る。ニックも笑顔で迎える。やはりチップは多めだったのか。

早朝で車の少ない道中、アンドレと話をする。

ツアーの日程は彼自身がたてたものか、それとも会社が決めたのかと聞くと、会社が決めたと、言う。

今度のツアーでは工場見学など無かったが、そういうツアーもあるのかと、聞くと、ツアーによって、香水工場やソーセージ工場など含められたものもある、と言う。

共産政府の名残りの工場跡など、興味深いものではないだろうか、と言うと、工場に行っても中は何もないし、たいして面白いものも無いと、言う。

彼は、ハリウッドがアメリカ人に及ぼした影響や想像力を知らないんだ。

工場の現在の持ち主は政府や民間人だそうだ。

このような会話を続けているうちに、車はソフィア空港に着く.開港後1年ほどと言う未だ新しい空港は、著しい照明の下で銀色に輝いている。

 

“ノ・ロック(ご機嫌よう)”と、ニックに封筒を渡すと、

“ノ・ロック?”と、不思議そうな顔をする。

あ、発音を間違えた。

”ノー・ローク“と、言い直す。

“おお、ノー・ローク! ダー、ダー。ノー・ローク!”(ダーはイエス。)

立っていたら私を抱きしめたことだろう。

荷物を持ってくれて構内に私を案内し、あそこがカウンターで、あそこからゲートに入ると、教えてくれたアンドレにも封筒を渡す。

喜びを体中に漲らして彼は何度も礼を言う。

見返りを求めず人を喜ばすということは、なんと快いことだろう。

彼が示したベンチに座ってカウンターのオープンを待つ。

ホテルの女が言ったように、構内はガランとしていて、レストランも出店もオープンしていない。

コーヒー1杯飲まず待つこと2時間。やっとフランクフルト行きの機内の人となる。

ソフィアからフランクフルトまで、2時間あまり。たいしたことは無いと重い瞼を閉じるが、すぐ朝食のため起こされる。

フランクフルトに着いて乗客が降りる支度を始めた。

隣席の子連れの若い母親(ブルガリア人らしい)が萎れたホウレン草のように眠ってしまった、2歳の子を抱き上げ、4歳の子を促す。(乗務員に子供たちの年を言っているのを聞いた。)

飛行中1度もグズらなかった子供たちを見て、”いい子達ね、”と言うと、”よく泣くんですよ、“と母親が笑う。“そんなことないわ”

乗客が立ち上がった時、母親が眠った子を片手に、もう一方の手で大きなショルダーバッグを肩にしようとするので、”持ってあげる、”と言って袋を受け取り、肩にかける。背中には、リュックが、片方の肩にはショルダーバッグがかかっているにも関わらずである。

“サンキュー”と言って私に袋を預けた母親は、子供を担ぎ直すと直ぐ、私から袋を取って、“大丈夫持てます”と、言う。馴れてるのね、と袋を返す。

この子供嫌いのイジワル婆さんが、どうしてあんなことを言ったり、したりしたのだろうと、自分でも不思議に思えた。

人の優しい面ばかりに触れて来た結果であろうか。

 

降りてからまたバスで15分ばかり走って、ターミナルに着く。

フランクフルト空港は恐ろしい所だ。

何しろ広い。そして案内があまり無い。ゲートを出てどっちに行って良いものか見当も付かぬ。

接続の飛行機は6時間もの後出発のため、モニターにはフライト・ナンバーもゲート・ナンバーも出ていない。

性格で、なるべくゲート近くで待機したいのだが、人に聞いても解らないので、やたら歩き回る。“動く床”も、電動車も無い。

通路に1箇所だけ足を上げて休めるよう、リクラィナーが10台ほど置いてあるが、全部人に占められている。

フード・コートはただ1箇所、2階にある。

そこにはDuty freeの売り場やしレストランがたくさんあるが、広い空港の他所には何も無い。

長い通路を歩きに歩いてゲートを探すが解らない。

人に聞いても解らない。腹が減る。仕方なくまた二階のフード・コートを目指す。

長い長い道のりだ。荷物がだんだん重くなる。

やっとフード・コートに辿り着く。

入って直ぐのアジア式レストランに入り、ビールとタン麺のようなものをオーダーする。さすがドイツのビール、美味い。タン麺も美味しい。

長いことかけてビールを飲み、やっと人心地が付いたので立ち上がる。(ユーロが利く所だ。)

午後2時発のサン・フランシスコ行きのゲートのナンバーがモニターに現れる。

朝7時半に着いてから5時間以上たっている。

遠い遠いゲートまでまた歩き、行き着いた時には倒れそうに草臥れていた。

 

10時間ほど後、サンフランシスコに着き、税関を通る。

この頃の税関の官吏は小ウルサィ。

よく聞こえるようにと、補聴器のイヤフォンを両耳に入れた。

それでも官吏の言うことが一寸聞こえなかったので、つい習慣どおり、えっと。耳を寄せると、

”イヤフォンを外せば聞こえるだろうに”、と若い官吏が意地悪気に言う。

“これ、補聴器よ。でもiPODみたいで、クール(カッコイイ)に見えるでしょう、”と言うと、彼は慌てて、

“ミュージックを聴いてるのかと、思った。イエス、イエス、クールだ”と、言い、

“ウエルカム・ホーム”と、笑顔になった。

ホーム!スイート・ホーム! 

無事帰りついた! 有難う、神様、ツアーのみなさんたち。

サン・ディエゴ行きの飛行機に向う私の足取りは軽かった。      終わり