Mrs Reikoのルーマニア ブルガリア紀行

5月25日

部屋に入ると直ぐ、3時のWake-up callを電話で頼んだ。コンピューターの声が返ってくる。

“Three hour.” 

ナンダ、three hour ?3時間じゃないよ、Three o’clock 3時と言ったのに。

ブルガリアではそういう風に言うのかと思って、ベッドに入るが何となく不安で、寝付かれない。

枕元の時計の目覚ましもセットはしたものの、頼りない。

仕方ない。荷物を整えた後、直ぐ出て行かれるよう服を着たまま横になる。

アンドレがロビーに来た時、私が居なければ電話をかけてくるだろう。

なかなか寝付けず、それでもトロトロしたのだろう、ハッと眼が覚めたら2時半だった。

それから眠れず、3時にはロビーに下りていった。広いロビーを使用人たちが掃除している。

カウンタ-の女が驚いて,こんなに早くどこへ行く、と聞く。

3時45分に迎えが来る筈だから、ルームサーヴィスの勘定も払わねばならないし、と言うと、飛行機が6時20分発なら2時間前でなく、1時間前に行けば充分だったのに、と言う。

まだ30分以上あるからもう一度部屋に帰って寝たらと、言ってくれたが、どうせ行っても寝られないと、ロビーの椅子に座って眼をつむる。

アンドレたちは本当に3時45分に来るだろうか、と考える。実は、お金を封筒に入れる時大分考えたのだ。ツアーの案内書には、ガイドには40ドル、運転手には30ドルが妥当、と書いてあった。

普段ケチな私は旅をすると、Big tipperになるきらいがある。

まじめに労働する人たちがいじらしくなり、ついチップを弾んでしまうのだ。

50レイの、プラスチック紙幣。そうなんだ。ルーマニアの紙幣はプラスチックでできている。アンドレがプラスチックは良いよ、洗濯がきくからと、言って私たちを笑わせたものだ。

それを、3枚ずつ封筒に入れる時、考え込んだ。150レイは50ドル強だ。

ガイドも運転手も同じ額にした。運転手だって随分働いているんだ。

ロビーの椅子で使用人が働くのを見ながら考える。あれは人よりも多かったのだろうか、少なかったのだろうか。

一人で賭けをした。

もし少なかったらアンドレたちは、“寝坊した、”とか何とか言って、仏頂面で遅れてくるだろう。多かったら機嫌よく定刻に来る筈だ。

私一人のために真夜中に起きてくる人たちを、ないがしろにすることはできない。

また有り金全部、レイとユーロを小銭も入れて、二枚の封筒に入れた。

一人分10ドル位になる。

“ハロー、”という声でハッと眼が覚める。いつの間にか眠っていたものと見える。

アンドレであった。時計を見ると3時46分。早朝にも関わらず、機嫌の良い顔だ。

彼と共に外に出る。ニックも笑顔で迎える。やはりチップは多めだったのか。

早朝で車の少ない道中、アンドレと話をする。

ツアーの日程は彼自身がたてたものか、それとも会社が決めたのかと聞くと、会社が決めたと、言う。

今度のツアーでは工場見学など無かったが、そういうツアーもあるのかと、聞くと、ツアーによって、香水工場やソーセージ工場など含められたものもある、と言う。

共産政府の名残りの工場跡など、興味深いものではないだろうか、と言うと、工場に行っても中は何もないし、たいして面白いものも無いと、言う。

彼は、ハリウッドがアメリカ人に及ぼした影響や想像力を知らないんだ。

工場の現在の持ち主は政府や民間人だそうだ。

このような会話を続けているうちに、車はソフィア空港に着く.開港後1年ほどと言う未だ新しい空港は、著しい照明の下で銀色に輝いている。

 

“ノ・ロック(ご機嫌よう)”と、ニックに封筒を渡すと、

“ノ・ロック?”と、不思議そうな顔をする。

あ、発音を間違えた。

”ノー・ローク“と、言い直す。

“おお、ノー・ローク! ダー、ダー。ノー・ローク!”(ダーはイエス。)

立っていたら私を抱きしめたことだろう。

荷物を持ってくれて構内に私を案内し、あそこがカウンターで、あそこからゲートに入ると、教えてくれたアンドレにも封筒を渡す。

喜びを体中に漲らして彼は何度も礼を言う。

見返りを求めず人を喜ばすということは、なんと快いことだろう。

彼が示したベンチに座ってカウンターのオープンを待つ。

ホテルの女が言ったように、構内はガランとしていて、レストランも出店もオープンしていない。

コーヒー1杯飲まず待つこと2時間。やっとフランクフルト行きの機内の人となる。

ソフィアからフランクフルトまで、2時間あまり。たいしたことは無いと重い瞼を閉じるが、すぐ朝食のため起こされる。

フランクフルトに着いて乗客が降りる支度を始めた。

隣席の子連れの若い母親(ブルガリア人らしい)が萎れたホウレン草のように眠ってしまった、2歳の子を抱き上げ、4歳の子を促す。(乗務員に子供たちの年を言っているのを聞いた。)

飛行中1度もグズらなかった子供たちを見て、”いい子達ね、”と言うと、”よく泣くんですよ、“と母親が笑う。“そんなことないわ”

乗客が立ち上がった時、母親が眠った子を片手に、もう一方の手で大きなショルダーバッグを肩にしようとするので、”持ってあげる、”と言って袋を受け取り、肩にかける。背中には、リュックが、片方の肩にはショルダーバッグがかかっているにも関わらずである。

“サンキュー”と言って私に袋を預けた母親は、子供を担ぎ直すと直ぐ、私から袋を取って、“大丈夫持てます”と、言う。馴れてるのね、と袋を返す。

この子供嫌いのイジワル婆さんが、どうしてあんなことを言ったり、したりしたのだろうと、自分でも不思議に思えた。

人の優しい面ばかりに触れて来た結果であろうか。

 

降りてからまたバスで15分ばかり走って、ターミナルに着く。

フランクフルト空港は恐ろしい所だ。

何しろ広い。そして案内があまり無い。ゲートを出てどっちに行って良いものか見当も付かぬ。

接続の飛行機は6時間もの後出発のため、モニターにはフライト・ナンバーもゲート・ナンバーも出ていない。

性格で、なるべくゲート近くで待機したいのだが、人に聞いても解らないので、やたら歩き回る。“動く床”も、電動車も無い。

通路に1箇所だけ足を上げて休めるよう、リクラィナーが10台ほど置いてあるが、全部人に占められている。

フード・コートはただ1箇所、2階にある。

そこにはDuty freeの売り場やしレストランがたくさんあるが、広い空港の他所には何も無い。

長い通路を歩きに歩いてゲートを探すが解らない。

人に聞いても解らない。腹が減る。仕方なくまた二階のフード・コートを目指す。

長い長い道のりだ。荷物がだんだん重くなる。

やっとフード・コートに辿り着く。

入って直ぐのアジア式レストランに入り、ビールとタン麺のようなものをオーダーする。さすがドイツのビール、美味い。タン麺も美味しい。

長いことかけてビールを飲み、やっと人心地が付いたので立ち上がる。(ユーロが利く所だ。)

午後2時発のサン・フランシスコ行きのゲートのナンバーがモニターに現れる。

朝7時半に着いてから5時間以上たっている。

遠い遠いゲートまでまた歩き、行き着いた時には倒れそうに草臥れていた。

 

10時間ほど後、サンフランシスコに着き、税関を通る。

この頃の税関の官吏は小ウルサィ。

よく聞こえるようにと、補聴器のイヤフォンを両耳に入れた。

それでも官吏の言うことが一寸聞こえなかったので、つい習慣どおり、えっと。耳を寄せると、

”イヤフォンを外せば聞こえるだろうに”、と若い官吏が意地悪気に言う。

“これ、補聴器よ。でもiPODみたいで、クール(カッコイイ)に見えるでしょう、”と言うと、彼は慌てて、

“ミュージックを聴いてるのかと、思った。イエス、イエス、クールだ”と、言い、

“ウエルカム・ホーム”と、笑顔になった。

ホーム!スイート・ホーム! 

無事帰りついた! 有難う、神様、ツアーのみなさんたち。

サン・ディエゴ行きの飛行機に向う私の足取りは軽かった。      終わり

Mrs Reikoのルーマニア ブルガリア紀行

5月24日

ソフィアの町を見物して歩く。

アレクサンダー・ネヴスキー大聖堂、セント・ニコラス教会を訪ねた後、ソフィア最古の教会、セント・ジョージ教会のロタンダ(円形建築物)を見に行く。

なんでもキリストの頃からの建物であると、聞いた。

そのうちの一教会(名を忘れたが、ブルガリア正教会?)を見学した私は、やはり直ぐ出て来てしまい、外で皆を待っていた。

教会の前には車椅子に乗った男が物乞いしている。

中で信徒に恭しく囲まれて話をしている僧侶が見えた。

ところが僧侶は、急に話しを途中で打ち切るようにして、急ぎ足で教会から出て来た。トイレにでも行くのかと、私の好奇心を誘った彼は、教会の横でハタと立ち止り、タバコに火をつけ、携帯電話で話し始めた。

タバコと携帯電話か。僧侶にはなんとなくそぐわない。

その後ソフィアの町を散策してホテルに帰る。

今夜はお別れのディナーがあるので7時にロビーに来るようにと、言われた。

ロビーで集合した時、アンドレが、私の飛行機が午前6時20分発のため、明日午前3時45分に迎えに来ると言う。

ひがな一日歩いた後、午前3時45分ははツライなあ。

豪華なレストランに行きディナーを食べる。今夜はワイン付きだ。

私が白ワインを、アレックス、ジャネット、韓国婦人が赤ワインをオーダーする。

ワイングラスに満たされた白ワインが私の前におかれ、デキャンターに入った赤ワインは、テーブルの中央におかれた。

アンドレとニックはビールを、私たちはワイングラスを挙げて乾杯する。

笛や太鼓の賑やかな音楽が始まった。

そのうち民族衣装を着た若い男女が踊りながら入ってきて、音楽に合わせて活発なダンスを始める。

非常にテンポの速いエネルギッシュなダンスだ。

暫くして、向かいに座ったアレックスのグラスが空なのに気が付いた私は、隣席の眼鏡サンに、“アレックスはもっとワインを飲みたいんじゃないかしら”と、半分以上もワインが残っているデキャンターを指して 囁いた。

“おお、”と彼女は急いでデキャンターを取り上げ、アレックスのグラスにワインをなみなみ注いでやった。

可哀相に、デキャンターでワインが出てくるとは予想もしなかった彼は、スタンのように、”ワイン!“と、年上の男女にグラスを突き出せなかったのだろう。

眼鏡サンは彼のグラスが空になった頃、”もっと、どお?“とデキャンターを取り上げたが、食事を終えたアレックスは断った。

結局赤ワインは、デキャンターに半分ほど残ってしまった。レストランは随分得をしたようだ。料理には使えるのだから。

音楽とダンスは延々と続く。

アンドレ、スタン、フョンは、可愛い踊り子に引っ張り出されて踊りの輪に加わった。私たちネクラはただ見るのみ。

そのうちアレックスがスタンのカメラを取り上げ、写真を撮りだした。

眼鏡サンもフョンに同様のことをしてあげる。

フョンに比べてずっと口重の彼女は、“フョンとは高校以来の友達だけど、一度も喧嘩したこと無いのよ、”と静かに言う。

“フョンは良いお友達を持って幸せね、”とお世辞抜きで答えた。

11時になった.少しでも寝ておかなければブッ倒れると、気が気じゃない。

他のメンバーの飛行機はみな午後に出発する。

朝の3時には起きねばと思うと、気もそぞろになる。

 

ようやくホテルに帰った時は12時を回っていた。

明日も会うことだしと、チップの封筒をカバンに仕舞いこんだまま、降りようとすると、前に出た人たちがみな封筒をアンドレとニックに渡している。

アレッと思って、急いでカバンの中を探すがなかなか見つからない。

やっと探し出した時には、みんなホテルに入ってしまった後だった。

運転席にいるニックに“ムツメスク、”と言って封筒を渡すと、“ムツメスク、グジャ、グジャ、グジャ・・・”と、満面に笑みを浮かべ、私に解らぬ言葉と共に熊手のような両手で私の手を握る。

ロビーにいるアンドレにも封筒を渡そうと、急いで玄関口に近寄った私に, “Have a good trip home! (気をつけてお帰りよ)”と、タバコを吸っていたスタンが声をかけてきた。

それまで彼に気が付かなかった私は、思いがけぬ優しい言葉に胸を突かれ、”Thank you.   You too”と、感謝した。

またルーマニアに来る、と言うフョンとメール・アドレス交換などのため、座って打ち合わせをしていたアンドレにも、有難うと、封筒を渡す。

ジャネットが立って待っていた。

“あなたにサヨナラを言わずに別れたくなかったのよ、”と握手する。リュウマチ持ちの彼女の握手は穏やかだ。

彼女の後ろで、微笑みながら立っていたアレックスとも握手する。

じっと眼を見合わせての力強い握手だ。

眼鏡サンと抱き合ってサヨナラしていると、フョンが立って来て、

“グッバイ、レイコ、あなたと旅して楽しかった、”と言い、しっかり抱いて離さない。眼が濡れている。

“私もよ“と、強く抱き返す。

ずっとそのまま一緒に居たかった人たち、さようなら。

後ろ髪を引かれる思いで部屋に戻る。

Mrs Reikoのルーマニア・ブルガリア紀行

5月24日

途轍もなく大きな修道院に連れて行かれた。

残雪を戴く周囲の連峰を遥かに見上げる修道院は、リラRilaという谷間にあり、UNESCOの世界遺産に登録されている。

大勢の人が歩き回る門内の中央に教会があり、広大な僧院がそれを取り囲む。

回廊の所々に突き出ている金属のパイプから、清冷な水が間断無く流れている。

飲んでみると氷のように冷たく美味しい。

私は、それ以来、水道の水を飲み続け、ペットボトルにも詰めて持ち歩いているが、どこの水もとても美味しい。

教会の中とその周囲を見て回った後、小さな土産物屋で僧侶が編んだという、頑丈そうでカラフルなソックスを買う。

店は大変な繁盛だ。英語の良く出来るおかみさんがテキパキと客を捌いている。

トイレの所在地をアンドレに聞いていると、フョンが、私も行くと言って付いてきた。建物の角にある原始的な (水洗だがしゃがむ、)トイレに入る。

”どっちが前だか後ろだか、わからないわね、“と隣のストール(囲い)の彼女に声をかけると、本当に、と答えが返ってきた。

そういえばいつの頃からか、車の席順の関係で、いつも一つか二つしかないストールの列でしんがりになる私を、彼女たちは先に入れてくれるようになっていた。

車を降りてから私を待っていてくれるのだ。

車の後席から一番後に出て、トイレの列の最後につく私を、一度アンドレはおいてけぼりにしたことがあった。

ある教会見学の時、私を待たずに皆と塔に登ってしまったのだ。

塔への階段が見つからぬまま、“あのアンドレ奴が”と、教会見学にたいした興味はないとはいえ、なんだか、ないがしろにされたような感じを抑えて、その近所の写真を撮ったりして皆を待った。

教会に興味を示さぬ私を思い遣ったのか、それとも、始終トイレのノロい女と、苛立ったのか。

いつも彼女たちが済むまで待たなければならぬ身にもなってみろ、と思ったものだが、彼女たちはそれに気がついていたのであろう。

僧院の近くで昼食を摂る。スープを飲みながらフョンが聞く。

“レイコはコンドのリーディング・クラブのメンバーなの?”

“リーディング・クラブ?”

“私のコンドにはリーディング・クラブがあって、月に一度メンバーが集まって読んだ本の批評するの。”

“便利ばかりが取り得の私のコンドでは、あまり本を読む人もいないみたい。”

“英語の本を読むの?” ジャネットが聞く。

“そうよ。”

“そうねえ。翻訳物だったら‘トラウマ’みたいな言葉が出てきて混乱するかもね“と私。

皆ワッと笑う。

自称、グルーピィgroupyだ、という彼女は、その他にも色々のグループに属しているという。

ミニバスはブルガリアの首都、ソフィアに向った。

ソフィアSofiaとは英語のPhilosophy (哲学)のことよね、とフョンがアレックスに念を押す。

知恵者と乗り合わせて幸いだ。居ながらにして学べるんだもの。

夕方遅くソフィアのヒルトン・ホテルに到着する。

何もかも揃った素晴らしいホテルだ。

しかし、食事は不味い。出て行くのが面倒だったので、ルーム・サーヴィスを頼んだが、塩辛いハンバーガー、タイ風チキンスープ、フレンチフライ、みな不味かった。

テレビはNHK番組を放映していたが、同じ番組が繰り返され、一時間ほどで、飽きて眠ってしまった。

 

Mrs Reikoのルーマニア ブルガリア紀行

5月23日

朝食のテーブルでジャネットと一緒になる。

ルーマニアで食べ損なった林檎を、ブルガリアでも同じようなものであろうと、ナイフも無いまま、ガブリと丸齧りすると、ジャネットが恐ろしそうに私の顔を見る。

ああ、そうだった、私みたいな年寄りが林檎を丸齧りすると、奇怪かも知れないと、反省する。

皮の青い大きな林檎であったが、瑞々しく、甘みも青森産と変わらない。

ロビーでミニバスを待っていると、韓国婦人たちが来た。

3人で話をしていると、つい目先に座っていた男二人が喧嘩を始めた。

立った一人が座った一人の頭を平手で殴る。

アレッと見ていると、また殴る。

“喧嘩してる”と、私が言うと、彼女らも見る。

殴られた方は殴り返さず、何か言い訳をしてるみたい。

やがて私たちに気がついた殴り男は、座って語気荒く何か言い募っている。

暴力をふるう人に馴れていないので怖いと、私が言うと、フョンが、私は馴れていると言う。

二番目の兄が酒を飲む度、戸障子を叩き壊したりしたそうだ。

ある日、一番上の兄と三番目の兄が一緒になって、彼を殴り、懲らしめた。それきり二番目は温和しくなったそうだ。

そのお兄さんいくつだったのと、聞くと、19歳だったと言う。

ご両親は何もしなかったの?と、聞くと、母はいつも泣いてばかりいたし、父はコンキュバィンの事で忙しくて何もしなかったと言って、ハ、ハ、ハ、と大笑する。

あけっぴろげの彼女が急に可愛くなった。

一度彼女は車中で、”レイコーッ、あなたのハズバンドは白人?”と聞いたことがあった。

“そうよ。”

”私のもよ、“と彼女。続けて、

”フツウの将校?”ときた。

“ノー、フツウの兵隊。”

彼女のようにカガヤかしい人生を歩んでいない私は、あまり誇らしげに語ることが無い。

彼女は換金したお金がなくなると、“誰か貸してーッ”と、叫ぶ。一度スタンが貸してやるのを見たことがある。

皆の前で借り、皆の前で返すと言うのが、彼女の流儀であるらしい。彼女のように無邪気になれたらどんなに良いだろう。

ミニバスが来て、プロディ(Provdiv)の町を見学に行く。

シプカShipka 教会を見学の後、日本の“明治村”のような所に連れて行かれる。

ゲートを入った途端、良い匂いが鼻をくすぐる。

パン焼きを実演しているのだ。

あまりにも美味しそうな匂いにつられて、丸いパンを一枚買う。

どっしりと重い、ボリュームのあるパンだ(3リヴァ) 以後、最後の日まで非常食として持ち歩く。

その後、エツラEtura民族博物館で、昔のアルバニア人の金持ちの家を見学する。

トルコの家のように、広い部屋に一メートル程の高さの、ベッドを延長したような広い床があり、カーペットが敷かれたその上で、家族や使用人たちが寝たり針仕事をしたりしたという。

糸紡ぎやハタ織りの機械の他、色々の用具が置いてあり、生活感がある。

主人の部屋も使用人の部屋もあまり変わり無く質素だ。

井戸は庭にあり、大きな鍋や釜のある二階のキッチンまで運ぶのは大変だったろうと、ときの使用人に同情する。

次に、4000年前のロシアの将軍の墓のレプリカを見る。

側のミュージアムに、墓の図面や掘り出された遺物が展示されている。

発掘中の本物の墓は柵で囲まれ、見ることはできない。

気の利いたレストランに入って昼食を摂る。

リヴァの持ち合わせが少なくなったので節約して、茸入りオムレツとソーダ水を取る。

ジャネットが貸してあげるよ、と言ったが丁寧に断る。

どうも、人から物を借りるということに、抵抗を感じる

たいして安くなく、15リヴァもした。

プロディの街中、ミナレットが空高く聳え立つ回教のモスクにも連れて行かれた。

靴を脱がぬと入れぬと言われ、面倒なので入らなかった。

モスクは前にも何度か見たことがある。

同じく居残り組のアレックスと二人で町をウロウロする。

ギリシャ正教の彼は、モスクに抵抗を感じるのかもしれない。

その点、ジャネットはナンデモござれと、どこにでも入る。

私はただメンドクサイだけ。

ユダヤ教徒であろうジャネットは、ニューヨーク市の下町(と思う)のクイーンスのアパートに住んでいる。

種々雑多な民族がお互い隣り合わせに暮らしているが、とても平和だと言う。

ルーマニアブルガリアも多宗教国家であるが、喧嘩もせず、お互いの宗教を認め合っているらしいから、偉い。

どんな宗教でも、信者にとっては絶対のもので、彼らの敬虔さには心を打たれる。

ホテルに帰ってから、また歩いて、ツアー付きのディナーを食べに行く。

戸外で食べたチキンは硬くて美味しくなかった。

”レイコ、塩、“と、隣に座ったスタンが指差す。

わたしゃウエイトレスじゃないんだよと、無礼にも聞こえる彼の言葉にカチンときた私は、心中呟き黙って渡す。

旅行から帰る度に踵が痛くなる病気を持つと言う彼は、アルコールを飲まない。

いつもダイエット・コーラが無いかと、レストランで騒ぐ。

ワイフや娘にイヤがられるというタバコを、安いこの国で、この時とばかり始終吸っている。

ホテルに帰った後、暇つぶしに探検してやろうと、ロビーの奥の大きなカシノに入りかけたら、その前にいつも立っている、黒の背広の男が寄って来て何か言う。

ちょっと見たいだけだと、英語で言っても解らない。

仕方なしに指眼鏡を作って覗き見を真似る。笑って男は中に入れてくれた。

内部はアメリカのカシノと変わらない。

ガラガラに空いたカシノをゆっくり見て歩いていると、若い女が来て、丁寧な態度で、キャッシヤーの所に行って登録しなければいけない、と言う。

ギャンブルする気は無いので、直ぐ出て来た。



Mrs Reikoのルーマニア ブルガリア紀行

5月22日

朝早くホテルのダイニングルームで朝食。

少し早すぎたのか、コーヒーができてない。ホテルの使用人が食事している。皆ニコニコして、お早うと、声をかける。

相変わらず卵など見向きもせず、美味しいソーセージやハムをせっせっと食べる。

折角ヨーグルトが美味しいと言われる国に来ていても、あまり好きでないためバイパスする。

美味しそうなパン菓子もだ。

一尺ほどもある太いバナナは甘くて美味しい.アメリカ物の二倍も大きいキウイはちょっと酸っぱかった。

フランス人のツアー・グループがたくさん来ている。

これは私にとって初めて見る光景だ。

今までフランス人は、数多くの私のツアーの中にも居なかったし、彼らだけのグループにも会った験しがない。

自分たちの国だけが、観るに値すると思っていた誇り高き国民が、地に下りて来たか。

アレックスも、彼らのことは良く言わない。

英語で何か聞くと、“トン、トン、トン、トン、トン、”と突っけんどんにフランス語で言い返すと、抑揚を口真似して、皆を笑わせる。

赤い屋根の石造家屋や曲がりくねった道路の、アルバニア人が創ったという、古色蒼然たる中世期風の町でChurch of Nativity 降誕教会?を訪れる。

ブルガリアでもっとも多く装飾が施されている教会といわれ、1600年代に描かれたという2000枚以上の聖画が薄暗い教会の壁全体を覆う。

通常のキリスト降誕、受難、復活の絵と共に描かれた、“最後の審判”の絵が恐ろしい。

悪業を積んだ者たちが死の直後、槍を持った鬼共が待ち構えている地獄に落ちて行く絵は、悪行予防に効果満点だ。

クラーい気持ちで陽光サンサンの外に出、ホッとする。

プロディの町を見下ろす小高い丘の中腹に、ローマ古代円形劇場の廃墟が現存する。

素晴らしい眺めだ。

そこへ行く道で、一人の絵描きからその近辺を描いた黒のペン画を買う。

色つきの水彩画もあったが、なんとなくペン画に引かれた。

円形劇場近くの写真を撮ったりした後で、とあるレストランで昼食を摂る。

ジャネットがピザ、アレックスと韓国女性たちがスープ(ヨーグルトで作った冷たいスープだそうだ、)私は虹鱒を注文する。

パンも欲しいかと聞かれ、ウンと頷く。

やがてパイ皿のような丸いパンが最初に運ばれる。

縦の切り目が上皮に幾筋も入っている。みんな、首を傾げる。

ジャネットのピザかもしれないから、食べずに待っていたらと、アレックスが言うので、手をつけずに英語の解るウエイトレスを待つ。

やがてパンの二倍の大きさのピザが運ばれて来た。

恐れをなしたジャネットが、誰か食べない?と聞くが、誰もイエスと言わない。

次に巨大な虹鱒が運ばれてきた。ところが塩もなにもつけずの白焼きの魚は、新鮮だがイタダケない。

テーブルの上には塩コショウもおいてない。

少しずつ口に入れるが飲み込むのに苦労した。

片身の半分ほどで止めて、パンをむしって食べる。パンは美味しい。

勘定を払う時、みんな食べたものを挙げたが、“虹鱒一匹、”と言った私の皿を見てウエイトレスは、“一匹?”と笑い、持って帰れるよう、箱をあげようか、と聞く。

ジャネットにも聞いたが、二人とも断る。ピザは4分の1だけ食べられていた。

ホテルに帰り暑い中、昼寝していると、騒がしい音に目を覚まされる。

外に人がたくさん集まっているようで、一部の人が何か叫ぶと、それを追うように一同がドッと歓声を上げる。

さては共産党デモのシュプレヒコールと、思ったが、眠くて起き上がれない。騒音は繰り返し続く。

あまりの騒がしさに、ようやくハッキリ眼が覚め、起き上がって外を見ると、ホテル前の広場は人で一杯だ。

よく見ると、警官も立っているが、何もしないで見ているだけだ。さらに気をつけて見ると、群集は皆着飾った若者たちだ。

男は黒の背広にネクタイ、女は裾の長い舞踏服のようなものを着ている。

警笛を喧しく鳴らしながら、色とりどりの風船を風に靡かせ、窓から顔を出して叫ぶ男女を乗せた車が、人ごみの中を何台も通る。

訳の解らぬ外の騒ぎの続くなか、そろそろ晩飯の時間なので、ルームサービスを呼ぶと、電話が途中で切られてしまった。

仕方無しに階下に下りてレストランに入ろうとするが、ウエイターが握りこぶしの上に平手を乗せた合図で断る。

満員御礼だ。良く見ると戸外に居たような若者たちで満席だ。

外はまだ若者たちが行き乱れている。

チェックイン・カウンターで、何処か食事ができる所は無いかと、聞くと、そのホテルマンは簡単に、カフテリアに行けば良いと、言って先に立ち案内してくれる。

ナンダ、食堂の直ぐ隣がカフテリアなんだ。

閑散としているので、ロビーの一部かと思っていた。

愛嬌の良い可愛いウエイトレスに、ビール、スパゲッティ、カスタード、コーヒーを注文する。みな美味い。

値段は全部で11.24リヴァ=8ドルほど。安い! やはりあの庭園付きのランチは高かった。

騒ぎはハイスクールの卒業祝いだそうだ。

高校卒があれだけ騒いで、一流ホテルでディナーを食べるということは、ブルガリアは見た目より金回りが良いのであろう。

後でアレックスが、ハイスクール卒業であれほど大仰に騒ぐのなら、大学卒業生は何をするのかと、アンドレに聞いたが、案に相違して、大学卒業生は騒がない、彼らは就職や将来のことで頭が一杯だから、という答えが返ってきた。

ラテン系のブルガリア語はギリシャ語に似ていて、私には一語も解らない。

ロマン系のルーマニア語は、同系統の英語に似た単語が時折り見られる。

ギリシャ語を話すアレックスがメニューなど、翻訳してくれる。

話す言葉は解らぬが、字を見れば大体の見当がつくそうだ。

(中国を旅した時の事を思い出した。)

そういえば、夕べホテルでディナーの時、ウエイターが、“お済みですか?”と聞いたとき何気無くウンと頷いたが、ちゃんと解った。ブルガリアでも、やはりイエスは頷くのだ。

アンドレは言葉の全然違う国同士の駄洒落を吹いたのだ。

プロディProvdiv の町中のホテルに到着。

玄関は立派だが、部屋は安っぽい。テレビもろくに映らない。

 

 

 

Mrs Reikoのルーマニア ブルガリア紀行

5月20日

ホテルの食堂で、大きな音をたてる機械からカプチノを注いで飲む。ルーマニアでは、コーヒーと言えばカプチノで、恐ろしく濃い。

一度アメリカンと言うのがレストランにあったのでオーダーしたら、やはり濃いカプチノを少量と、暖めた牛乳をたっぷり持ってきた。

朝食の後、ぺレス城というルーマニア王族の夏の居城を訪れる。

中は家具つきでなかなか豪奢だ。写真を撮るとお金がかかるので、ケチな私は撮らない。

王のオフィスだったという部屋でガイドが、秘密の扉があるが、何処か解るか、と聞く。

すぐに私は側の書棚の下と睨んだが黙っていた。

みな、あれこれと指差して推量していたが結局私だけが正しかった。

秘密の扉から外に抜け出す小道が続いているとのことだ。

建築に約100年(1383-1477)費やしたというブラック・チャーチを訪れる。

南ヨーロッパで最大のゴシック建築の教会だという。“黒い教会”と言う名は、戦争の時、敵に荒らされるより燃やした方がましだと、信者たちが火をつけたので、黒焦げになったからだという。それから修理を繰り返し、現在はもう黒くはないが名前だけ残っている。幾度となく他国に占領された国らしい,悲しい逸話だ。

アンドレが言うには、第二次世界大戦の時、始めルーマニアはドイツに味方していたが、ヒットラーが降伏する10ヶ月程前、アメリカ、ロシヤ等の連合軍に鞍替えしたそうだ。

そのため、戦後、ロシヤが統轄して、結果的に共産国家になったのだ。

アンドレは、ルーマニア共産国家になったのは、ロシヤ方に味方したためだと言うが、もしドイツ軍と共に負けていたら、やはりロシヤに占領され、戦中、戦後、もっと酷い目にあっていただろうと、私は密かに、鞍替えを決心した時の首相を讃える。

何しろ空襲にあわなかっただけでも幸いだ。

国中のあちこちに、映画の“Dr. Zivago”を思い出させるような、共産政府が建てた, だだっぴろい工場と太く高い煙突の廃墟が見られる。

一度近くで写真を撮りたいと思ったが、アンドレたちルーマニア人は、国の恥とでも思うのか、一度も車を止めて見学させない。

地価高騰の都市の真ん中でもそのままにして、誰も新しいビルの建設も考えないらしい。

教会の後、ルーマニア最初の学校とミュゼァムを見に行く。

オテアヌ・ヴァシレ博士が案内と説明をしてくれる。

そこから南下して、ルーマニアの町、Giurgu ジュアーグからダニューブ河を渡り、対岸のブルガリアの町、Ruseルースへと、移動する。

フョンがいつの間にか元の席に座っている。

道中彼女の携帯が何度も鳴る。

韓国にいるハズバンドとの通信だと思っていたら、兄弟からで、彼らと共に目下、生まれ故郷に教会を建てる計画中であるという。

それで彼女は各教会にあれほど興味を示したのか。

へえ、あなたMillionaire (百万長者)なのね、と言うと微笑して答えない。そうなのであろう。

教会にはあなたの名前をつけるの?と聞くと、生まれ故郷の名だけ、と答える。住む世界が違う。

何人兄弟?と話しのついでに聞くと、コンキュバインconcubine(妾)の子供二人入れて9人と、言う。40代で死んだコンキュバィンの子供を引き取って、大学まで出してやったそうだ。

母親はイヤがったけれど、と付けくわえる。面白い家族構成だ。

ダニューブ河を跨ぐ長い橋の真ん中で、"ここからがブルガリアです、"とアンドレが知らせる。

なるほど広大な河だ。川上も川下も霞んで見えない。

ミシシッピー河と勝るとも劣らぬように大きい。

多くの船や重機類が岸辺に見えるルースのチェック・ポイントに、バスが入る。

閑散としたその場所は、車が2.3台止まっているだけだ。

アンドレが私たちのパスポートを集めて持って行く。

何をしているのか、なかなか帰ってこない。

ブースが4.5軒あり、係員は7.8人もいるが、その半数はベンチに座ってタバコをふかしたりして、暢気な雰囲気だ。

約30分も待たされた挙句出発を許され、みんなホッとする。

アンドレが言うには、ルーマニアの車券制度は厳しく、ある一定期間が過ぎた古い車の車券は許可しないので、みんなブルガリアに行って古い車を買い、そこで車券を取ってルーマニアに持ち帰るとのことだ。

だからブルガリアの鑑札をつけた車がたくさんルーマニアを走るのを見て、随分ブルガリア人が観光に来ていると思ったら大間違いだと、笑う。

ルーマニアは知らずに、それとも知ってて、ブルガリアに経済援助をしているみたい。

バスは有名なValley of the Roses (バラの谷間)と言うロマンチックな名の盆地に入る。

麦畑が限りなく続く素敵な田園風景で、その中に点々とピンクの野バラが咲く。

"童は見たり、野中のバラ・・・“という歌に出てくるような可憐な花だ。

ここではその花から香水を作っているそうだ。

たまには栽培しているかのように、たくさん固まって咲いている所もあるが、大抵は畑の脇に自然に生えたように咲いている。

Veliko Tarnovoヴェリコ・ターノヴォという、ブルガリアの昔の首都だったという町に入る。

時代が中世期に逆戻りしたかと思わせるような古風な町だ。

ヴェリコ・ターノヴォ塔に登り、あたりを見回す。

それから第二代ブルガリア王国の居城の跡だといわれるTasravets Hill タスラヴェエツ・ヒルという、小高い丘の上に連れて行かれた。

所々に兵士の姿が刻まれた石塔が立つ城跡の中央あたり、200段ほどの階段上に、大きな記念塔が立っているが、誰もそこまで登ろうとしない。

しばらく写真を撮ったりして、休憩した私たちを乗せたバスは、

綺麗な庭園があるレストランの近辺に連れて行く。

立派なレストランがたくさん並んでいるが、トイレが整っていそうだからと、特に立派な所に、ジャネット、韓国人たち、私が入り、庭に設えられたピクニック・テーブルの周りに座る。

庭の真ん中に池があり、隅には孔雀がいる立派なレストラン、さぞかし高かろうと思った。(ビール無しで、30リヴァ=21ドルだった。)

丁度隣合わせになった眼鏡サンが、"今度はどこに旅行するの?“と聞いたので、まだ決めてない、と答えると、クロ-チァも綺麗な所よ、と言う。

彼女はドライヴィング・グループに属していて、始終世界を旅行しているそうだ。

"世界中、トレーラーを引っぱって行くのは大変でしょう?"と、オールドファッションの私が聞く。

"トレーラーじゃなくて、レンタカーよ。“

ンまあ、レンタカー!

国によって異なる交通規則、狭い道路、威張り腐る官憲、そういうことをものともせず、世界中をレンタカーで走り回る彼女たちは、私にとってはそれこそ新人類だ。

最近南アフリカ喜望峰まで行ってきたという彼女は、9月にはアラスカに行く予定で、シアトルの弟の家でグループと落ち合い、出発するそうだ。

夕方、豪華な構えのホテル(Dedman Hotel)にチェック・インする。

当てがわれた部屋に入ろうとしたが、キーカードの使い方が解らない。

カードの差し入れ口が無いのだ。通りかかったスタンが、そこのセンサーに当てればいいんだと、教えてくれる。さすが地球の旅人。

ジャネットがプリプリ怒って、どうやってこのバカなドアを開けるのよ!と、向こうの方から叫んだので、行って教えてやる。

“もう齢だから、と言って、したくないことはなにもしない、”と言う彼女は、写真機も持たない。

でも癇癪はいけないよ、ジャネット、齢なんだからサ。

暑い。西向きの部屋はファンだけでエアコンが無い。

幸いこの地方のホテルの窓は、皆開けられるようになっているので、早速窓を開ける。

外は案外涼しい。網戸が無いので虫が入ってくるかと思ったが、暑さには耐えられない。

先刻から喉が痛む。クシャミもしきりに出る。

どうも頭上から吹きつける車のエアコンが良くなかったらしい。

アレルギーの薬を飲み、ホテル近くの小さな雑貨屋にバッテリーと、のど飴を買いに行く。

Cough drops(のど飴)と英語で言っても、男のようにがっしりした顔つきのオバサン、解らない。

仕様がないので、コンコンと咳をしてみせると、ああ、と言って、それらしい細長い箱を出す。ユーロはダメというので、ちょっと待ってろと、近くのATMで換金して来る。1ドル=1.4リヴァ(liva)だ。

のど飴は薄荷の味がして美味しい。

もう一軒の店で、ティッシュと杏のジャムのクッキーを買う。

女店員は超無愛想、クッキーは超旨い。

その晩、ホテルでツアー付きのディナーを食べる。

ダイニングルームからの景色が素晴らしい。

ウエイターも丁寧だ。

だがステーキは柔らかかったが、ライスが入った料理はまずまずだった。

コーヒーはどうだと、ウエイターが聞くので、ウンと言ったら恐ろしく濃いコーヒーを持って来た。

半分も飲めなかったが、出てくる時、コーヒーは別料金なので、1.6リヴア払ってくれと、ウエイターが言う。

換金した残りの金を持っていて良かった。

夜は窓から涼しい風が入ってくるので快適に眠れた。

虫は一匹も入ってこない。アメリカを発つ時以来持ち歩いていた虫除けのスプレーを屑篭に捨てる。

ダニが一杯いるなんて、20年も前の話しなんだろう。

ルーマニアでは、空から薬を撒いていると、アンドレが言っていたが、ブルガリアでも同じことをしているのだろう。

そのうち公害だ、なんだと騒ぎ出すかも知れぬが、今のうちなら大丈夫だ。

文明的?生活様式に入ったのは両国とも、1970年、80年代だったから、化学汚染はまだ表面化してないのであろう。

 

Mrs Reikoのルーマニア ブルガリア紀行

5月19日

8時に階下で朝食。ニックがニッコリ、お早う、と言う。

今日はブラン城Bran Castleに行くという。

ドラキュラで有名な城だ。途中で寄った町の広場Town squareで換金する

また100ドル代えるのに3枚もの紙にサインさせられた。

1377年に築かれたブラン城は山の上にある。

長い坂道の登り口には、ちょっとした土産物屋の市が開かれている。ハロウイーンで被るような面がたくさん店頭にぶら下がり、ドラキュラ?の面をつけ、魔女が被るような黒い帽子、それに、ヒラヒラした長い衣を着た背の高い男が、何か叫びながらそこらを走り回っている。

手製の物も売っているが、ほとんどがレース編みのテーブルクロスのようなもので、最近のアメリカでは使われないものだ。

それでもミシン刺繍のテーブルクロス・セットを一組買う。

30レイと言われたテーブルクロスを手に取って見ていると、ブースのオヤジさんが、同じ刺繍のテーブルセンターを見せて20レイ、テーブルクロスと、二枚で50レイでどうだと言う。

よっしゃと、50レイ出していると、オカミさんが,これもオマケだと、丸いドイリーを袋の中に押し入れる。

よほどボッて罪悪感があったのだろう。なにしろみんなを待たせてのやり取りなので、いつものように、負けなさいよ、と言う暇も無い。

大道でギターを弾いている男からCDも一枚買った。

ルーマニアン・ラプソディ(狂想曲?)を生み出した国の曲だ、悪い筈が無いと、彼がサインしてくれたものを聴きもしないで買う。たったの8レイ、3ドル足らず。(やはり音色の優しいギターとマンドリンの数曲で、帰ってから何度も聞いているが飽きない。もっといろいろ買って来れば良かった。)

オーナーが代わる度に、改築・増築を繰り返したという、広い広い城内は、曲がりくねった長い回廊が続く。

家具は何も無い。写真を撮るなら30レイだと、言われてカメラは仕舞っておくことにする。

 雪を頂いた山を背景に立つ城は、今また2億ドルで売りに出ているそうだ。

城を出て少し歩いた後、感じの良い戸外レストランでアレックス、フョン、眼鏡女性(とうとう名前を聞かなかった)とテーブルを囲む。

またオーダーでウエイターがマゴマゴした後、出された豚肉料理は割合旨かった。その席でフヨンが50レイ返してくれた。

昼間飲むと暑くなり眠くなるからと、それまで飲まなかったビールを、"今飲まないと、ルーマニアのビールの味を知らずに過ごしそう"と、注文する。同じくビールを注文した韓国女性たちがワイワイ言って応援する。

銘柄など解らぬので、メニューの一番上に書かれているビールを注文した。美味い。

親しくなった仲間の間で会話が弾む。

リタイア後も長いこと一人暮らしなので、失語症にかかってるみたい、とフョンのように滑らかに話せぬことを弁解する。

これでも昔は病院の通訳だったが、この頃は特に新しい言葉がどんどん出てくるので、解らないことだらけだ、と嘆く。

 

フョンが韓国でもそうだと相槌を打つ。

日本では敬語もだんだん無くなるみたい、と言うと、韓国では敬語は未だになくならない。

老人を敬う気風も無くならないと、彼女は言う。

日本では英語の言葉をカタカナで言うことが流行っているが、時にはちょっと解らない日英合成語も飛び出して来ると、言い、例えば、ずっと前だが、カラオケという言葉を始めて聞いた時、長らく不思議に思っていた、と私が言っている時、ウエイターが食物を持って来て、話が中断された。

今では全米、キャラオキーと言われ、当たり前のような言葉なので、みんな興味深深。

"それで、カラオケってどういう意味?“と、ウエイターが立ち去るの待ちかねて、フョンが聞いた。

"Empty orchestra、カラのオーケストラという意味”と、私。

へーっと皆感心する。

調子に乗って、それより最近もっと解んなかったのは、“トラウマ”よ、と言う。トラウマって?と、みな不審顔。

日本語で、トラは虎、ウマは馬なの。でも妹に聞いたら、英語のtrauma (精神的外傷)のことなんですって、と言うと、みなまた面白そうな顔をする。

発音は全然違うが、なるほど字を見るとトラウマともいえる。

でも、もう少し解るように訳せなかっただろうかと、考える。

“トラマ”かな、“ッラゥマ”かなと。

エイ!めんどくさい、“ショック”でいいじゃないか。“ショック”なら英語とよく似た発音で誰でも解る。

私が忘れていた1.5レイを、ジャネットが返してくれる。

背の低い彼女はミニバスから降りるとき、ペタンと床に一度座ってから降りるが、記憶も気力も私より確かだ。

彼女とホテルに3時頃帰ったが、みんなは広場を散歩すると言ってまた歩いて行った。

夜、ツアーに組まれた晩餐のため、イノシシを食べさせるというレストランに連れて行かれる。

狩猟の道具や絵などが飾られたレストランで、場所もイノシシが出そうな山の中だ。

若い頃は、オ・ポサム(タヌキ)まで食べたものだが、どうも野性の匂いが鼻につくのは齢のせいか。

皆は美味しいと言って、赤っぽいいグレービー(肉汁)までパンにつけて食べている。

豆腐のように薄く切った、硬いチーズの揚げたものは、チーズをあまり好まぬ私でも結構イケた。

明日行くブルガリアについて、アンドレが面白おかしく話してきかせる。

なんでも、ブルガリアではルーマニアの反対に、イエスは首を横に振り、ノーは頷くという。そして彼はブルガリア人の鈍感無骨ぶりを話して皆を笑わせる。(アメリカとメキシコのように隣国を良く言わぬのはどこも同じか。)

みんなルーマニアとは全然異なるブルガリアの国民性に恐れをなし、ジャネットなんかは、“なんだか行きたくなくなった”と、言う。

フョンが去年北海道に行った時の話をする。日本食が美味しかったと言う。

運転手に“オツカレサマ”というのに相当苦労したそうだ。

なるほど、外国人には舌が縺れそうな言葉だ。

韓国のソウルではある一軒のうどん屋の前にいつも行列が出来るとのことだ。

そこではたった一種のうどんと、2種類のキムチだけ出るが、とても美味しく、大繁盛していると言う。食べてみたくなった。

預けておいた、物凄く大きな重い鍵でホテルのドアを開け、中に入ってテレビをつける。

ここのテレビは点けたり消したりする度に、黒いカーテンのような部分が、ゆっくり画面の左右で動き、開いたり、閉じたりする。