SLとコークスの記

 貨車の中でも屋根のある箱型の有蓋車は馬や牛など、家畜を運んでいるようだったが、よく見かけるのは馬の方だった。

一車両の両側に馬を数頭乗せ、その真ん中にハンモックを吊るして、そこに人が寝泊まりして馬の世話をしているらしく、時折止まっている貨車の中から人が下りて来て、我が家の井戸から水を汲んでは、馬に飲ませてるいる事がよくあった。

もっと後になってからだが、あれは確か八戸のお祭りの時だったと思うが、近在から祭り見物に行く人たちが尻内駅に殺到して八戸行きの客車が満員で大勢の人が乗りきれずにホームに残された事があった。

今では考えられない事だが、その時、この有蓋列車に残された人たちが乗せられた。

真暗で馬臭くて息をするのも苦しく、自分が馬になったような気がして、尻内から八戸までがなんと長く感じられた事か。

あの馬に水を飲ませた人は、この中で馬と一緒に旅をしていたのかと、唐突に思い出した事があった。

あんなに鉄道と身近に暮らしていたのに、汽車と言えば機関車と貨車の記憶しかなく、客車を牽引している機関車とか、ましては、客車に乗って旅をした記憶となると、全く無いのは、当時の庶民の子供達にとって汽車に乗るなんて珍しい事だったのか、それとも貧しい我が家の特別の事情だったのだろうか。

大人になってから、近在の大地主だった叔母の昔話に付き合った時、まだ戦後間もない頃、国鉄の団体列車で、各地の神社仏閣を参拝しながら、四国の金刀比羅宮まで日本縦断の旅をした、と話していたことがあった。

当時、私の周囲では、子供は勿論の事、大人達でさへ旅をする、なんて思いもよらなかった時代だったが、そんな時でも、長い旅を楽しむゆとりのある生活をしていた人もあったのか、と驚きを持って聞いた事だった。

叔母からは正確な年代は聞き洩らしたが、後に偶然本の中で昭和24年東北のお百姓さんが、戦後初の団体列車で会費13000円、17日間で3000キロの大尽旅行をした。という記事を見つけた。

叔母の話していたのは、これだったのか、と思った事があった。  続く