SLとコークスの記

駅、と呼ぶようになったのはいつ頃のことだろうか。

私が子供の頃は誰もが停車場と言っていた。

東京出身の母が、上野駅、と言わずに上野の停車場、と言って

東京の従姉妹たちに笑われた、と話していたのも懐かしい思い出だ。

停車場の改札口を乗客と一緒に通り、跨線橋を東から西に通り抜ける小学校への通学路は、とうの昔に禁止され、何度かの区画整理で鉄道構内と一般住宅との間にはしっかり境界ができて沿線住民と鉄道との密接な関係は薄れてしまった。

昭和43年東北線の複線電化完成と共に太い煙突から真っ黒な煙を吐き続けた蒸気機関車は消え、煤の町尻内はいつの間にか変わっていた。

そして新幹線の止まる駅となり、昔とは較べようもないほど、便利で豊かな生活になった。

たまには旅にも出られるようになったが、目的地目指して一気に走りぬく新幹線の旅よりも車窓から移り行く景色を眺めながら行く鈍行の旅が好ましいのは、あの少女の頃、見た、機関車の中で黙々と働く二人の人影、真赤に燃える石炭の炎、ドラフトと汽笛の音、これらの光景が原体験となって私の中に住み続けているのだろう。

あの戦後の貧しい時代、食べる事だけに、必死に生きた時代、

貧しさゆえの不幸もあったが、子供達には、皆平等に未来への希望があった。

全てが便利で、豊かな物質文明の現代にあって、あの煤とコークスの中に埋もれた貧しい生活が懐かしく思い出されるのは古き良き時代への郷愁なのだろうか。   完