母と息子のセンチメンタルジャーニー

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荷物を解きながら、相変わらず肩にした携帯に話かけていたトムが、”ほら、ジムだ、“と携帯を手渡す。

携帯から聞こえてくるジムの声は相変わらず愛想が良く、朗らかだ。

朗らかに彼は言う。改装の方はなかなか進まないでいる。なんでも大工に依れば、4月までもかかりそうだ。

4月まで?! 今まだ2月末だぞ!冗談じゃない。それまで私にどうしろというのだ!

帰国は3月3日の予定だ。それから4月までどうするの?電話を置いた私は考え込んだ。

88年来今日まで、ストレスからいつも逃れてきた私だ。どうする?どうする?頭が目まぐるしく働いた。辿り着いた処置法は、やはりさっき言ったように、当分このホテルにいて、バケーションと洒落るのが一番のようだ。

沖縄が気に入っているトムに持ちかける。

“うーん、”と生返事。兎に角、一応そこらを見て回る、と言って、彼は外に出る。

テレビの日本語放送に魅せられた私は、当面の問題を忘れて画面に見入る。

 

トムが意気込んで入って来た。昔私たちが住んでいた家がそのまま残っている、と言う。目を輝かして伝えるトムは本当に嬉しそうだ。

買ってきた食料品をかたづけると、一緒に見に行こうと誘う。

億劫だが重い腰を上げる。この台風銀座の沖縄で、50年前の家が未だに残っているとは、やはり奇跡のようでもある。

ホテルから出て、坂道を15分ほど上り詰める。

あった。住宅街の一番上に山林を背にしてその家は建っている。なるほど昔の我が家だ。コンクリートの家は、ヤモリが始終壁に張り付いていて、私たちを気味悪がらせたものだ。

後ろの山には山道が川端(確か比謝川といった)から20メートル位の高さで、続いていて、左に行くと海に出る。右に行くと墓地に出て、沖縄特有の半楕円形の子宮型の墓が10基ほどもあっただろうか。

山道の途中、いくつか窪みがあり、当時、そこにはバラバラになった人骨がむき出しで横たわっていたりした。私たちは怖がりもせず、その前を通り過ぎて海に行ったものであった。今思うと不思議な光景だったと思う。戦後20年は経っていたのに。

すっかり疲れて帰り、私はそのままテレビの前、トムはもっと探検して来ると言って出て行った。バケーションの件は当分お預かりで、今を楽しむことにする。

トムが又意気込んで帰って来た。

昔沖縄の中学生たちと遊びまわった比謝川の河口で、潜ったり泳いだりして貝を探し出し、採ったその時、貝殻をこじ開けて食べたそうだ。

その中学生たちには女の子も混じっていたの、と聞くと、ああ、と楽しそうに笑う。今は汚染で、貝なんか川で採っても食べない方がいいよ、と言うと、解ってる、と言う。親の知らない所で大胆な遊びをしていたのだ。今になって聞く彼の青春の断片だ。

明日は、又船で遠出して、スノーケルをするんだ、と楽しそうに言う彼の言葉に、バケーションの話にも乗って来るんじゃないかと胸をとどろかす。

それから3月1日まで、ノンベンダラリと暮らした。近所のモールで、買い物をしたり、店を冷かして歩いたりである。モールは相変わらずガラガラに空いて居て、青物やお弁当等買う大きなスーパーの店員はたった一人、いつ行ってもニコリともせぬ40代の女性だ。

ある日、どうしたことか初めて笑顔を見せた時、その笑顔がとても彼女を綺麗に見せて、店中パッと明るくなるようであった。”あなたの笑顔とても素敵。お店が明るくなるほどよ、”と言うと、彼女は笑顔を続けながら、ありがとうございますと、言った。その日は一日中楽しかった。