帰郷 沖縄2
横浜で一時下船を許されたオハラ一家は、早速タクシーで寿司屋に行った。
母が昔チラシと呼んでいた、甘辛く煮付けた干瓢や椎茸と、紅生姜、錦糸玉子、が入ったものを期待した瑤子はチラシを六人前注文した。
目の前に出された、生魚がいっぱいのった丼を見て仰天した。
アンディを始め、子供達はそれまで生魚を食べたことがなかった。
すし飯だけをわずかに食べた、みなの皿の魚はごっそり残った。
船中、ミセスレイという日本人と彼女の男の子二人が、瑤子たちと親しくなった。
アラバマ州から来た、という彼女は、軍属の夫が横浜から乗船してくる、と言っていた。
横浜で乗船したミセスレイの夫は、沖縄の米軍最高司令官つきのスピーチ ライター(演説の下書きをする役)で、 GS―13、という相当高い位だと知り、瑤子たちは驚いた。
くだけた態度のミスターレイと、東京の下町の呉服問屋の娘だった、という小柄なミセスレイは、さっぱりした人達で、オハラ一家とはすぐ昔からの友達のようになった。
それから三日後、船はようやく沖縄に着いた。
那覇の港から嘉手納の家まで乗ったタクシーで、ヴォリュームを思い切り上げたラジオの沖縄民謡にいきなり出くわした一家は、その耳慣れぬ音楽に面食らった。
それからどのタクシーに乗っても聞こえるその音楽に慣れるには、一年ほどかかった。
数多の軍用機が爆音を上げて待機している、嘉手納の飛行場近くの海辺、水釜という所に、アンディが借りておいたコンクリートの家があった。
海岸から歩いて十分ほどの、丘の上にある3LDKには、軍隊から貸し出された家具が既に置かれてあって、すぐにも生活ができるようになっていた。
子供達は早速海岸に走って行って、透き通った水中に泳ぐ色とりどりの魚の群れに魅せられた。
台風に備えて頑丈に建てられた家は湿気がひどく、ヤモリが時々壁を這ったりしたが、瑤子は気にもしなかった。
同じような米軍向けに建てられた家が、折れ釘のように曲る坂道沿いに所狭く立ち並んでいて、隣りの家は叫べば聞こえそうに近かった。
三分ほど歩いて坂を下りると、小さな雑貨屋があり、子供達はそこで売っている細々した玩具を面白がって買って来た。
その隣りは美容院で、いつでも美容院に行けるよ、とアンディは言ったが、自分で髪を切っていた瑤子はあまり関心を持たなかった。
アンディは、島の中央に建てられた大きな陸軍病院の病棟係長として、責任ある仕事をしていた。
一家が上陸して四.五日してから届けられたフォルクスワゴンに乗って、彼らは島中を巡り歩いたが、小さな島は、ゆっくり走っても一日で見ることができた。
しかし、瑤子は、太平洋と南シナ海を一目に見下ろすことができる丘の上に立ち、
母たちの住む実家の家を思い、感慨無量であった。
透明な海、青空に浮かぶ白雲は、いくら眺めても飽きることがなかった。