建立以来500年以上だと言う大きなレストランの前で、車は止まる。

せめて旅行中くらい珍しい物が食べたい私は、マトン(羊肉)と野菜の大皿を注文する。

他の人たちはスープ、それに、韓国女性たちは、ビールも付けてと、注文する。

大きな蓋つきの入れ物に仕立てたパンに入ったスープが届く。

私にも持って来たが、オーダーしていないと、返す。

ウマイ、ウマイと皆がスープを食べている間、私はじっと待つ。

やがて色々の野菜が盛られた大皿が眼の前に運ばれる。

炭焼きのピーマン、玉ねぎ、トマト以外は、ジャガイモ、グリーンピース等、カンズメや冷凍物で、アメリカでもありきたりの物である。

まだマトンが来る筈と、パンも食べずに待っていたが、なかなか出てこない。

とうとうウエイターを呼んで、マトンはいつ出来るのかと聞くと、彼は慌てて、マトンもご注文でしたか、早速持って来ますと、言う。また時間がかかるであろうから、もういいと、言って、目の前の大皿のパンを食べる。

おなかが張ってはと、食べずにガマンしていたのだ。

マトンを一人前、野菜の大皿を一人前(いずれもメイン)をオーダーする老婆はボケているんだろうと、ウエイターが気を利かせて、野菜だけ持って来たのであろう。

ちゃんとメニューの写真を示しながら注文したにも関わらずである。(野菜はヴェジタリアン用の一皿であるらしい。)

間違いは誰にもあることと、笑いとばして勘定を払う時、チェックにパンの料金もついているのを見て、パンを食べておいて良かったと思った。ルーマニアのレストランではパンは別料金である。

レストランに入る前から、そこではレイだけが通用して、ドルもユーロも受け取らず、クレディットカードも利かないだろうと、アンドレに教えられていたフヨンが、

"あーっ、お金が足りない。どうしょう、“と声を上げる。

"私たちここで皿洗いして働くから、みんな、先に出て頂戴、”と言う彼女に、

“貸したげるわよ。いくらいるの?”と聞く。

“50レイくらい。”

彼女に50レイ紙幣を渡す。

“レイコは金持ちね。これからも頼むわね、”と言う彼女に、"当てにしないでよ、"と言い返す。

それにしても、レイも持たずに悠々とビールも入れた食事する彼女の肝っ玉に驚く。

私ならカバンの中の非常食だ。

Brasovブラソウと言う町中を歩き回り古い建物を見て歩く、なかなか凝った建物の町だ。B、r、a、s、o、v、r、a、s、o、vと一文字ずつ大きく書かれた看板が立てられてある。

アンドレは、あれを真似て、ハリウッドも看板文字を立てたのだと言う。

Curtea Brasov Hotel というホテルに到着する。二階の私の部屋はまるでジムのように広い。バスルームも広いがシャワーだけだ。

デスクの器に入ったキャンでイーを一つつまんで見る。

不味い。添え木の付いた一尺ばかりの苗木が植えられた鉢が二個置かれてあるのは、豪奢な広い部屋にはチグハグな感じがする。

ツアーに組み込まれたディナーを食べに戸外レストランに連れて行かれる。

スープ、鱈、ジャガイモ、缶詰のフルーツ・カクテル、水という献立。

みんなあまり有難そうな顔をしていない。

ごつごつした木の椅子は恐ろしく座り心地が悪く、その上あたりがイヤに騒々しい。

フヨンがゲームをしようよ、と提案する。

大学時代に良くしたゲームだが、今、誰か(古今・現在)をどこかに招待してディナーを食べるとしたら、誰を招待するか、というゲームだ。

まず最初に自分が言うが、自分はポールだ、と彼女が言う。

えっ、聖書の中のポール?

アレックスが何かポールについて言うが、よく聞こえない。

それに聖書の話は今興味が無い。

どの教会でもソソクサと歩き回り、一番先に出てくる私に、眼鏡の韓国女性が、“あなた何か、信仰している?”と聞いた。彼女の家は祖先代々クリスチャンだそうだ。

実を言うと、どこの教会でも同じように、キリストの誕生、受難、復活の絵が飾られ、その上、ロウソクがガンガン焚かれているので、息苦しく、咳が出て仕様がないので、絵画鑑賞だけで、アンドレの説明も聞かず、直ぐ出てくるのだ。

ゲームなぞ面倒くさいナと、思ったが、イヤだと言う勇気もない。

それぞれ理想の人物を唱えるが、眼鏡さんが、母親が来てまた美味しい物を作ってくれるといいナと、言うのに習って、十四歳の時死んだ父親と今話しをするのは面白かろうと、言った。

フヨンがニックはどうだと、アンドレに通訳させるが、彼はニベも無く、"知らん、"と佛丁面だ。誰か居るだろうと、なおも聞きたがる彼女に、“そっとしておけよ、”とスタンが止める。

アレックスは色々話に聞いた身内の者たちに会ってみたいと、言う。

彼がホテルの朝食の席で打ち明けた話によると、2年ほど前、サイプレス人?(よく聞き取れない)の母親を白血病で無くし、現在父親のギリシャ人とニューヨークで暮らしているそうだ。

お互い癌で身内を亡くした者同士痛みを分かち合い、現在50歳という彼は、死んだ息子(彼には言わないが)と同じ年で、何か通じ合うものをお互いに感じ、その後、彼は何かにつけて私を庇ってくれる。

足場の悪い教会を見学中に、先にたった彼が後ろ手でそっと段差を指し示してくれたり、私のランチの相手がいない時は付き合ってくれたりと、いつも気が付くと彼が側に居る。

 私がトルコに行こうかと思っていると、言うと、彼は、1973年、自分たちがサイプレスに住んでいた時、トルコの軍隊が攻め入って来て、身一つで故郷を捨てなくてはならなかったので、トルコには行きたくないと、言った。

ジャネットはドイツ、アレックスはトルコ、みんな何かしら心に傷をかかえているんだ。

アメリカ生まれだというアレックスは、英語の他に、父の生国のギリシャ語を話し、ジャネットはドイツ語とフランス語を話す。

 

 

Mrs Reikoのルーマニア ブルガリア紀行

5月18日

 

朝五時頃眼が覚める。隣のガイドの気配は一向にない。

トイレの音で眼を覚ますといけないと、相当ガマンしたが限界で起き上がる。夕べ九時半頃まで明るかった外はもう明るい。

アンドレは何処か他のトイレを使っていると見えて、バスルームは他人に使われた様子が無い。

日本人と同じように、遠慮とか嗜みがあるようなのに感心する。

 

また一寝入りして、8時頃下に行くと、今度は違った食堂でアンドレとニックが食事していた。

元気の良い他の者たちは、もう食事を済ませて、外で写真を撮ったりしているのだろう。

二人に挨拶して席に付く。珍しくニッコリ笑ったニックが、ジャムはどうだと、器を寄越す。

ごっつい大男の優しい心根に触れた思いで、ムツメスクと、受け取った。

荷物をミニバスに載せた後、どれ、少し写真でも撮るかと、門外に出ると、韓国女性たちにばったり会った。

”少し行くと教会や墓場があって、今私も写真を撮ってきたのよ、”と背の高いフョン(Fyon)が携帯の写真を見せながら教えてくれた。

眼から鼻へ抜けるように機敏な彼女に感嘆して、そっとアレックスに、"彼女、ピストルのようにシャープね、“と囁くと、

"彼女はちょっと欲求不満みたいだ”と微笑し、フヨンという名なんだよ。ハーヴァード大學を卒業したそうだ。

ハーヴァードはボンクラを入学させないからなあ、”と付け加えた。

”墓場?それは見たいわね“と、フヨンが指差す方角に歩き出したが、思ったより遠いようなので、あたりの写真を数枚撮っただけで途中から引き返した。

”あなたを拾いながら行こうと言っていたのよ、“とフヨンがすでに皆乗った車から声を掛ける。

”墓場見つかった?“と聞く彼女に、"案外遠そうだったので、途中から帰ってきた。度々みんなを待たせるのは嫌だから、"と言うと、

"あんたをおいて行くもんか、”と思いがけず、スタンが言う。

通常ランチを食べぬと、いうこの男はあまり私たちと行動を共にせず、いつも戸外でタバコを吸っている。

ちなみにルーマニアアメリカ・タバコは一箱2ドル70セント位で、アメリカより大分安い。

口数少なく写真だけ撮り続けるスタンは、めったに仲間に入らない。

私も初対面以来口を利いていない。

“でも、なるたけなら待たせたくないもんね、”と言って、今では私の定席となったシートに腰を下ろす。

全員いつも同じ席に腰掛けるのは妙であったが、なんとなくそうなっていた。

アンドレはいつもミニバスの中央に立ったり座ったりして説明する。

優しそうな民宿の主人夫婦と“ムツメスク”を言い交わして発車する。

もっと居続けたい気持ち。

相変わらずのゴロゴロ石舗装、ヘヤピン・カーヴの山道を急スピードで車は走り、ルーマニアで最も良く保管されているという中世期の要塞町、Sighisoara(シギソアラ)で、Vlad the iImpaler(串刺しVlad?)の生家、ハウス・オブ・ドラクを見る。

映画のドラキュラという名はここから生まれたのであろう。

今はレストランになっている普通の町家で、彼はここで1432年に生まれたという。

罪人の処刑には残忍な方法を取った彼も、ルーマニアではあまり悪く思われていないようだ。

アンドレが丁寧に串刺しの方法を教えてくれる。やはり残忍な方法だ。

シビウSibiuという町で、中世期からの店やレストランを見て歩く。

どこの町にも町広場があってその回りを店舗が囲む。

“串刺しVlad”の息子が暗殺されたという大聖堂を見学した後、Cozia(コジア)修道院の高い塔に登る。

丁度修学旅行中なのか、4年生位の子供たちで満員だ。

子供はどこの国でもうるさい。

ウンザリしながら見ていたが、手すりの粗い板の上に銅版が据え付けられていて、ニューヨークはここから何千キロメートル、モスクワはあっちに何千キロメートルと、矢印が付けられていたのは珍しいと思った。

折角暗誦している説明が子供たちの騒音で出来なくなったアンドレは、係りの者に文句を言っていたようだが、ガキ軍勢に大人は手も足も出ず、子供たちの流れに押されるように外に出た。

日差しが大分強い。この国に来て以来、好天気に恵まれているのは有難いが、今日は特に暑く汗が滲み出す。

"暑い、暑い、”と言いながらフヨンが車に帰って来た。

"こっちの方が涼しそうだからここに乗るね、“と言って、彼女はドアを開けて運転手の隣に乗り込んだ。

“エアコンはこっちの方が利くんだけれど。"と、アンドレが言ったが、彼女は平気な顔で動かない。

ニックが苦虫を噛み潰したような顔で真っ直ぐ前を向いて運転しているのが、後ろからでも解る。

走行中フヨンは前方や両横の写真を取りまくる。

さすがに予備知識豊富な彼女は、アンドレに次々と質問して、車中の会話は彼ら二人で占められている。

個人的質問をする彼女の声は良く透って、私にも良く聞こる。

聞くともなしに聞いた彼女の身の上話によると、ピースコアで韓国に来たハズバンドと結婚するため、21歳でアメリカに渡ったという。

ハズバンドは現役の国際弁護士で、現在ソウルで仕事をしており、彼女ら夫婦はソウルの33階のアパートに住んでいる、と言う。         続く

Mrs Reikoのルーマニア ブルガリア紀行

5月17日

 ビーで9時集合。トランシルヴェニア・アルプスに向ってミニバスがOlt River Valley (盆地)と言う川べりの町村の間を縫って走る。

アカシアとhorse chestnut (マロニエ?) の花が真っ盛りで、野山を真っ白に蔽っている。

ブカレスト以来ずっと眼にして来たそれらの花は、今では当たり前の風景の一部になっていたが、たまに野原で農事をしている人々の間に真っ白の一点を見出すと、オヤ、あんな所に、と眼を凝らす。

それが、冬篭りで真っ白になった肌の農夫が、シャツを脱いで、ルーマニアの短い夏の太陽を吸収している姿と解ると、その白い肌を羨む女性もいるのにと、おのずから微笑が沸き上がる。

冬は零下45度にもなり、夏は45度位まで上がるというルーマニアの気候はハンパじゃない。

アカシアやホース・チェスナッツの他にも、ケシの花のシーズンらしく、煉瓦色の花が一面咲き乱れる野原を度々見かける。

その度に、パラソルの女と子供が青空を背景にケシの花群の中に立つ、モネだかマネだかの絵を思い出す。

一面の朱色は遠くから見ると赤土のようにも見える。

アメリカでは、トランシルヴェニアと言えば、みな直ぐドラキュラの城と、そこから夜毎飛び立つヴァンパイア(吸血鬼)を思い出すみたいだが、それはアイルランドの作家が創造した話で、実際には、城は1377年に建立以来、次々と持主が代り、19世紀にはルーマニアの王族が避暑に使った城であったのだ、とアンドレが説明する。

フランシス・カポラの映画が大当たりしたおかげで、それまでそんなことを知りもしなかった城の回りの住民は大儲けしたとのこと。映画は良かったけれど、と、アンドレは皮肉を言う。

バスが通る道路わきの民家はみな瓦葺きで、茅葺は一軒も無い。

2車線の、狭いクネクネした道をできるだけのスピードで行くミニバスの揺れは激しい。

遠くのTransylvanian Alpsは未だ頂上に雪を載いている。

川沿いの、あたりの風景は奥入瀬沿いの道や、ヨセミテのホテルから公園に行く道を思い出させる。

畑に規則正しく植えられた木が林檎だと気が付き、またもや青森県を懐かしく思い出した。

土地の高度に依って、花をまだつけていたり、親指の先ほどの青い実をつけていたりする。

林檎の里だと気がついた時、ぜひいつか林檎を食べて、青森のと比べてみようと思った。

全体的に、ルーマニアの民家の屋根は実に複雑な形をしている。

うまく言えないが、普通の屋根のあちこちの角度からまた屋根が突き出ていて、その下に窓がある。

私が建築家だったら何々風と言えたであろうが、兎に角、多角形としか言いようがない。

普通のシンプルな屋根をおいている家でも、屋根裏に窓が少なくとも二つ位はあり、その窓の上部にはちゃんと小さな屋根がある。

遠くから見ると、まるで睫の濃い二つの眼が覗いているようだ。

風雅な家々を写真に撮りたいと思ったが、バスはスイスイ走り過ぎて行く。

今にもチルチルとミチルが出てきそうなキュートな家々を見ながら、自分だけのために止めてくれと頼むほど強気でない私が、あれよ、あれよと思う間に、バスは目的地に向って走る。

ガイドや運転手にとっては当たり前の風景なので、止めて写真を撮らせようとも思いつかないのだろう。

盆地の中、シビウSibiu という町で止まり、古い家々を見学する。

みな修理中である。中まで入った教会も修理中で、薄暗い上に、床の穴ぼこを板で被ってあったりして、足場の悪いことこの上無い。これがアメリカだったら、鉄兜を被った工事夫だけしか入れない所だ。

 頭の真ん中で髪をニワトリのトサカのようオッ立てた、モダン・ボーイ、アンドレは、滔々と立て板の水のように続ける説明の間にも、そこらに並べられている聖画にいちいちキスをする。

気がつくと、ニューヨークのアレックスも同じようなことをしている。

シビウ郊外の小川沿いの民宿の前でバスが止まる。

今夜はここで、ルーマニアの農家の生活を体験してもらうと、アンドレが言う。

敷地を囲む高い塀に接続した大きな木の扉が開いて、バスを中庭に導く。

品の良い40代の夫婦に迎えられる。庭には綺麗な草花が、ハンギング・バスケットから溢れるように咲きこぼれている。

あっちとこっちが我らの宿舎だと、指差すアンドレに、私はここで良いわと、すぐ近くの部屋(二階)を指差す。じゃ、自分はその隣だと、彼が言う。

2階の部屋は私のコンドのように、ドアが向かい合わせで、その間に2部屋共同のバスルームがある。

なんだ、アンドレとの共同かと、男の人とバスルームを共同に使うことにちょっとためらいを感じたが、ええ、ままよ、と荷物を背負って家の外階段を上る。

こじんまりした部屋には二台のシングルベッドがL字型に置かれ、窓から中庭が見下ろせるようになっている。

テーブルと椅子が2脚、テレビや電話は無い。

バスルームにはシャワーしか無く、清潔だが何もかも最小限度の設備である。

手を洗った後、丁寧にシンクを調べて髪の毛など落とさなかったか調べる。

人と共同でバスルームを使うと言うことは、骨の折れることだ。

 民芸品らしい織り目の粗い毛布がかかったベッドに横たわる。すぐ眠り込んだらしく、ハッと眼が覚めた時は7時を10分程過ぎていた。

夕食は7時だと、言われていたが、外では何も音がしない。

私が一番乗りかと、階段を下り、ハンギング・バスケットの花などの写真を撮っていると、宿の主人が来てニコニコしながら手招きする。

連れて行かれた所はもう皆が座って食事をしているダイニングルームだ。皆が一斉に振り向いて、笑いかける。

レイコー!どうしたの?みんな心配してたのよーつ!”と、背の高い韓国女性が声を上げる。それまで一言も交わしたことの無かった人だ。

"眠っちゃったのよ、”と言いながら、彼女の隣の席に座る。向かいの席のアンドレが、"ドアをノックしたんだけれど、返事が無かった、“と言った。

全然聞こえなかった。

実は今度の旅行では、本物の補聴器を持って来ていて、一個だけ、右の耳にいれていたのだが、どうしても頭が痛くなったりするので、その時も外して側の机の上においておいたのだ。

それでもドアのノック位は聞こえるはずだったが、よほどぐっすり眠っていたのであろう。

純白のテーブルクロスが掛けられた、長方形のテーブルの上には、ソーセージ、サラダ、チーズ、パン、塩漬けキャベツなどが載っている。みなうまい。

アンドレが自家製だと言って、ブランディを注いでくれる。

物凄く強くて喉を通らない。それではと、ワインを注ぐ。これはなかなかイケル。

何もかもここの自家製だとアンドレが説明する。民宿の仕事以外にお酒や食料まで作るとは、大変だろうなあと、感心する。

スープが出た。うまい!次に豚肉のロールキャベツが出たが、これも美味。添加物皆無の自家製食物の味は久しぶりだ。

食事をし、お喋りをしているうち、知らぬ間にブランデイもワインもみな喉越しが良くなっていた。

背の高い韓国女性は、滑らかな英語でよく喋る。随分あちこちに住み、旅行もして歩いたようだ。話術が巧みで、人を逸らさない彼女に感心して、黙って聞く。

デザートのパイも食べ、食事が終わった。

”では、明日は八時の朝食です。“ アンドレが言う。

”Wake-up callはあるの?”私。皆がドッと笑う。

外はまだ明るい。ジャネットと二人で塀の外の小道を小川に沿って歩いてみる。

向こうから爺さんが何か言いながら手を振り振り近づいてくる。

どうもあまり友好的ではなさそうだ。黒い犬が一匹付いてくる。

側近くまで来て、相変わらず何か叫んでいるので、私が覚えたてのルーマニア語で、”ノー インテレク(解りません)“と言ったら、少しの間叫ぶのを止めて不思議そうな顔をしていたが、また叫びだしたので、帰りましょうと、ジャネットと踵を返した。

ルーマニアでは放し飼いの犬に噛まれる人がたくさんいると、聞いて、私も齢だし、もう履くまいと決めていた、重く暑苦しいジーンズを履いて来たのだ。

中型の犬は大人しそうであったが、けしかけられたら何をするか解らない

私には爺さんが、‘若けえ者どもがミンシュクてえ訳の解らねえモノ始めたおかげで、訳の解らねえヨソモンがうろつくのはガマンなんねえ!“と、言っているように聞こえた。

部屋に戻り、シャワーを浴びる。アンドレがバスルームを使った様子は無い。

空色のカヴァーに包まれた羽根布団の下に潜り込む。

ルーマニアのホテルではみなカヴァーに包まれた羽根布団を使う。しかしこの羽根布団は包んだ二枚のカヴァーにもかかわらず、布団全体が一枚の羽のように軽い。

しかも暖かで、雪が見える山下の宿、相当寒くなると覚悟していた私がその下で夜中に寒さで目覚めることも無く、気持ちよく眠れた。

 

 

 

Mrs Reikoのルーマニア ブルガリア紀行

 アメリカ同様の服装をした若者たちで賑わう公園の池端、モンテ・カルロというレストランで食事する。

サラダ、チキン、フレンチフライにペットボトルの水、デザートは薄いパンケーキにブルーベリーのジャムがかかったもの。

アルコール飲料の出ない質素な食事だ。チキンはささ身をただ網の上で焼いたもので硬く、全く味が無い。

 

これでもルーマニア人にとってはご馳走なのだろうと、黙って食べる。

胡瓜とトマトの角切りの上に細く削ったチーズを乗せたサラダ、ブルガリアン・サラダは以外と旨い。これはその後、あちこちで食べた。

 

ガイドのアンドレは若いに似合わず話上手で、"あなたたちは散々旅行して、行く所が無くなったのでルーマニアに来たのだろうが、“と冗談を言う。図星の私たちはニヤニヤ笑う。しかし、今まで会ったことも無いたった5人の会食(その中の一人、運転手は英語を喋らぬ)で、一時話が途絶える。

私は仕様が無く、サービス精神を発揮して今まで経験した旅行の逸話などを述べて、気まずさを和らげる。

すると、隣に座ったカリフォルニアの男(スタンという名の、私の苦手な背の高い白人)の調子が出て来て、彼も旅行体験を語り出す。10年前、スタンダード・オイルの会計の仕事をリタイアして以来、一人で旅行して歩いているという彼は、1度旅行に出ると1月ほど最寄の国を泊まり歩くというツワモノだ。

ハイスクールからのワイフはまだ仕事で働いているそうだ。(他人は皆配下の者というような、こういう男の傲慢な態度が気に入らぬ。)

彼曰く、今まで行った所ではマニラとフランスが最悪だ。

フランス人はフランス語を話さぬ者は人間でないように扱う、と言う。

私が東洋のどの国から来たか、まだ解っていなかったような彼は、マニラについてはなにも言わなかったが、相当嫌な思いをしたことが顔に出ていた。

フランス語も流暢だと、自分で言うアンドレは、明日仲間に入ってくる女の人の名がジャネットとフランス風の名だから、気をつけろと、スタンに注意する。大丈夫、十分気をつけると、スタンが請合う。

私と向かい合って座っている、頬ひげの40代のニューヨーク男は言葉少なく、ニコニコしながらたまに相槌を打つ程度だ。

その隣のガイドのまた隣に座った大男の運転手、ニックの存在がちょっと気になりだした。

何しろ英語を喋らないので、話に乗ることも出来ぬのは仕方無いが、愛想笑いもせず、むっつりとチキンを齧っている。

そのニックがアンドレに塩を取ってくれと頼むのを機に、ニックはパンも欲しいかもと、眼の前にあったパン籠を指差すと、ニックはノーと言って大きな手を振った

一同の中にあったわだかまりが少し解けた気がした。

アンドレが日本人もたくさん来るが、質問があるかと聞いても、あまり質問もせず大人しい。恥ずかしがり屋なんだろうか、というので、彼らは完璧な英語を話せないと思って、口を開かないのだ。

だが自分は日本で生まれ育ったが、アメリカに50年以上も住んでいるので、すっかりアメリカ人だ。

英語は未だに完璧ではないが、バカなことを言っても平気だ、二度と会う人たちでもあるまいし、と嘯く。(アルコールが入らなくても私の“一席打つ癖”は結構出てくるようだ。)

アンドレは私の質問に答えて、ルーマニア人の平均月収は600ドル程度で、ガソリンはリッターで買うが、大体1ガロン5,6ドルだと言う。それでもルーマニア人はベンツやBMWを好んで買うとのことで、ちょっと不思議な思いだ。

今のアメリカでは月収千ドル取っても貧乏人で、ガソリンは1ガロン3ドル以下、使う車はほとんど日本か韓国製だ。どうなっているんだろう。

ホテルに帰り、翌朝、9時にツアーグループ全体がロビーに集まり、ブカレスト市内見物するということで、解散。

 

5月16日

なんとなく眠れぬ夜を過ごして、ぼうっとした調子で朝9時、ロビーに行く。

昨日の男二人の他、私の肩ぐらいに背の低い、私より年上と思える西洋人のオバサンと会う。

ニューヨークからのジャネットだと紹介されたその女性は、短く薄い髪の毛を赤く染め、真っ青な目玉の小さな眼、それでいて鼻がイヤに大きく尖っているので魚を想像させる。私と同じく一人旅だと言う。

 

そこへ5,60代の東洋女性が二人来て、背の高い方が、アメリカ市民ではあるが、現在、主人の仕事上韓国に滞在中とのこと、もう一人の眼鏡をかけた方は、ニューヨーク在住とのことである。

二人は生まれた韓国の高校時代からの親友で、よく一緒に旅行するという。

興味半分で日本版ヤフーの“知恵袋”を時々覗いている私は、激しい日韓対抗感情を知っていたので、いくら今は3人とも米国市民でも、なんとなく反感を持たれるんじゃないかと危ぶみ、近寄らぬことに決め込んだ。

グループはたったの6人!先が思いやられる。

全員集まったところで、背の高い方の韓国女性がガイドを待たず、”自己紹介しようよ、“と名を名乗った。

よく聞こえなかったが私は、”れい子、”と名乗りながらも、これが韓国人特有の気の強さかと、唖然とする。他の人たちも気を呑まれた形で名を言う。

まずホテル前の広場に立って、あそこがミュージックホール、ここが美術館、と指差される。

ルーマニア中の芸術がそこに集まったようであったが、"あなたたちは運が良い。今日は土曜日だが、今日と明日の日曜日はブカレスト中の美術・博物館が皆タダになるからね、“とアンドレが言う。美術・博物館はまだ市内にたくさんあるようだ。

タダにしてくれてもなあ、と慨嘆する。昨日からの疲れがまだとれてない私はただただ休息したい。

ニックの運転するミニバスで、Village Museumに向う。

丁度日本の明治村のように、古い建物を持って来て並べた所だが、ユネスコ有形文化財に指定されたとのことである。

茅葺の住居、水車小屋、教会が並んでいて、その庭で特産品を売っている。

生憎ごつい陶器類が主で、その他、蜂蜜も特産らしいが、どれも私には担いで帰れそうも無い。

次に、バカでかいParliament (議事堂)を見学する。

ここは90年代に処刑されたチャウシェスカ独裁時代に建設が始められた建物で、恐ろしく大きい。

中に入るには、空港の検査のように厳しいチェック・ポイントを通らなければならぬ。

ジャネットがブツブツ言う。“Rug (敷物) でも盗んで行くと思ってるんだろうか。

広い内部の廊下には幅広の赤いrugが敷き通されてある。

その他には何物もない天井の高いガランとした広間が続く。

若い女性が先にたって、ここが謁見所、ここが舞踏室などと説明するが、家具も置かれておらぬダダッ広い広間はどこも同じに見え、あまり興味が沸かぬ。

高く広い階段を上って2階に行く。2階も同じ。

さらに3階へと先立つガイドの女性に、ジャネットが言う。"ここで待ってる、“と。

私もジャネットと待つことにする。"エレベーターは無いのかしら、"と言うとジャネットは、”あるけれど、見学者には使わせないのだろう。”そういえば、小さなエレベーターに、後から後から詰め掛ける参観者は入りきれないだろう。

10分ほどで、階上から仲間が降りて来た。やはり広い広い何も無い部屋がたくさんあったと言う。

出口で10レイのチップを女の子に渡す。私の他にチップを渡したのはニューヨーク男のアレックスだけみたいだった。

それにしても、ルーマニア人は巨大な建造物を好むらしく、議事堂前の大通りの両側に並ぶビルは、凝った建て方の巨大ビルの連続で、それはまるで、巨人の墓場のようにも思える。

その後、高級そうなレストランの前に私たちを連れて行ったアンドレは、ここが美味しいよ、と言って私たちをおいて何処かに行ってしまった。

外のテーブルにまであふれた客で大賑わいのレストランは空席が無いようなので、気おされた私とジャネットは他のレストランを探しに歩き出す。

韓国女性たちはとっくに何処かへ行ってしまった。

ジャネットがあんたの友達はどこへ行ったの?、と聞くので、彼女らは私の友達ではない、今日始めて会ったばかりの韓国人で、私は日本人だ、と言うと、ジャネットはおおいに恐縮して知らなかったと、しきりに謝る。

同じ顔立ちだから無理も無いと、私は慰めるのに大童。

人種の間違いにどうしてそんなにこだわるのか、不思議なくらい。

レストランはたくさんあるが、どこも外のテーブルまで一杯の繁盛ぶりだ。

ようやく空席を見つけたイタリアン・レストランに腰を落ち着ける。

ジャネットが若いウエイターにイタリア語で、勘定を別々にしてくれるかと、聞くと、ダメだと首を振る。

歩くのが嫌さに、あなたと同じものを注文するから勘定は半分ずつにしようよと、提案する。オーケーと言ってジャネットがオーダーする。

私も同じものをと、オーダーして出てきたものは、トマトソースのかかったパスタの上に鯵の切り身のようなものが乗っている。

ニューヨークで外食し慣れているジャネットは、どうもニューヨークの味と違うと言っていたが、私にはなんとも言えず不味いものに思われた。

 

食べながら、彼女が今まで行った国々のことを披露したので、私がドイツに住んでいたことから、ドイツにも行ったことがある?と聞くと、自分はドイツには行かない、なぜならユダヤ人だから、と言う。それで人種にあれほど拘泥したのか。

 共産圏脱出後約20年のルーマニアは、ようやく観光事業に目覚めたものと見え、市内あちこち、遺跡発掘に取り掛かっていて、工事場が多い。

このレストランの前も発掘作業中と見え、大きな穴をプラスチックのシーツが囲っている。

当然道路が狭まれ、私たちのテーブルの直ぐ側をオートバイが唸りを上げて行き来するので、話もゆっくりできない。

遺跡は別に空襲で破壊されたわけでなく、新しい建物を建てる度に、古いものを崩したり、その上に建てたりしたようだ。

お互いの持ち金を勘定してみると、私の方が少し余計持っていた。ジャネットはウエイターに少し余計にチップをやりたいので、1.5レイ借りて置くね、と言う。そんなことしなくても、あるだけの金のチップで済ませばよいものをと思ったが、忘れていいのよ、と言ってレストランを出る。

最初のレストランに帰り着くと、韓国人女性たちが外に立っていて、どこに行ってたの、と聞く。彼女たちはそこのレストランで食事を済ませたとのことで、あの混んだ所でよく席があったもんだと、感心する。

 

Mrs Reikoのルーマニア ブルガリア紀行

5月14日

ブカレスト・コンサートホールを眼下に見下ろすヒルトンは、さすがに威風堂々としたホテルだ。

立派なロビーに感心しながらカウンターに近づく。現地5月14日の午後6時半。

イタリヤに行った時疲れのためローマ市内の見物を諦めた苦い経験から、今度はpre-stayと言って、旅行社が提案するプランで、ツアー開始より1日早く着くようにしたので、同じツアーの人たちはまだ到着していない。

その一晩余分の宿賃は眼が飛び出るように高かったが、ユナイテッド航空のFrequent flyerのため、今度の飛行機代が只になった私は気前よく、オーケーと言ったのだ。

それなのに、である。カウンターの若い男は私の予約は入ってない、と言う。

そして、もう一度予約を取れ,と言う。 

そんなことしたら、また350ドル払わなければならない。とんでもないことと、持参の旅行社の明細書、ヒルトンホテル・クラブの会員証などのプリントを出して見せる。もしもの場合にと持ってきて良かった。出迎えのガイドがいたらスムースに交渉してくれたであったろうに。

10分ほどゴタゴタ言ったりしたりしていた男はやっと、あった、と言ってキーカードをくれた。感じ悪いことこの上無し。タクシーの事と言い、ルーマニアの印象は益々悪くなる。

4階の部屋は日本の成田の部屋と同じような作りで、3倍もする宿賃にふさわしくない。

疲れきってベッドに倒れこむ。眼が覚めたのは11時頃。ルームサービスを頼むことにする。どうせまた不愉快な係員と電話で交渉することを厭いながらも、食べぬわけにはいかない。

メニューを見ると、ビールが恐ろしく高い。Budweiser 小瓶が25レイ(約8ドル)である。

ままよと、ビールのほか、1番高いビフテキと野菜のブロイルを注文した。電話口の男は非常に愛想がよく英語も滑らかだ。気を良くした私は調子にのって、デザートのプリンまで注文した。

30分ほどでドアをノックして若い、電話のウエイターが恭しく、車つき、白のテーブルクロスの円卓を押して入って来た。

物柔らかにビールをコップに注いでくれるウエイターや、なかなか立派な食器・銀器を見ながら勘定を払う。

ルームに附けておこうかと言うウエイターに、いや、キャッシュで払うと、10%のサービス料のついた勘定書きをチェックした上、また10%ほど彼にとっておけと渡す。サービス料と言っても、実際彼が貰うのはいかほどばかりか。チェックインの時の男のため人間不信に陥った私は、誰も信用しない。

嬉しそうに恭しく礼を言うウエイターを送り出し食べ始める。ゴロンと4センチほどの厚さで4x5センチほどの矩形のビフテキは、柔らかくて美味い。

フレンチフライが付け合せだ。野菜のブロイルは、その後いろんな所で食べたが、ピーマン、トマト、玉ねぎなどを網のうえで焼いただけのものだが、これがなかなか美味いのだ。

プリンを食べ、部屋つきのコーヒーを飲み、すっかり満足した私は、またベッドに横になりテレビをつける。いくら暇があっても市内をそぞろ歩きするほどの元気は無い。

ルーマニアのテレビはまだあまり発達しておらぬと見え、アメリカ物がほとんどだ。

ニュース番組のCNNを付けっぱなしにして、また眠り込む。

5月15日、

今日から本当のツアーが始まる。それにしてもガイドからはウンともスンとも言って来ない。

ホテルの食堂で朝食を摂る。ヴァイキングで、ソーセージ、ハム類が美味しい。元気の良いウエイターが来てコーヒーを注いでくれる。

タクシーと食事でleiをほとんど無くしてしまった私は、換金の必要を感じ、支度して部屋を出る。

アメリカのドルもユーロも使えると聞いてきているが、やはりleiが無難のようだ。

 

ホテルの換金場はまだ閉まっている。チェックイン・カウンターの女の子に聞くと、すぐ側の銀行に行け、と言う。彼女は愛想よく今私が教えてあげます、と言い、後ろのドアを開けて入って行った。

待っていると、大男のドアマンが寄ってきて、附いて来いと手招きする。

あの女の子を待っているんだと言っても、解っている、付いて来いと、しきりに手招きする。両人の間にはテレパシーでもあるのか。

ドアの外に押し出された形で、あそこがバンクだ、と指差される。

言われたバンクの前まで来て見ると、バンクはまだ閉まっていて、9時にならなければ開かない。

前に屯していた浮浪児のような少年が2、3人寄ってきて何か言いながら手を差し出す。無視して9時までの15分間ほど、そこらを散策することにする。

私の部屋からすぐ見下ろせるコンサートホールは面白い屋根の形をしている。正面に名前は解らないが、楽聖銅像が立っている。

方向音痴の私は迷わぬよう、ホテルの前の十字路を行ったり来たりする。

すぐ側のRaddison Hotelヒルトンより建物が新しく、立派だ。

付属のcasinoを大々的に広告している。Casinoはルーマニアブルガリアのいたるところにある。共産圏を脱出した後、映画、テレビ、観光等をさしおいて、すぐ始めた企業であろう。あまり人気があるようにも見えなかった。

9時にバンクに戻った。換金したいと、大男のガードに言うと中に入れてくれた。

たった4人ほどの小さな支店なのに重々しい。ケージの中の男に用件を話すと、まだrateが入っていないから30分ほどしてから来いと言う。

ゲンナリして、日本円もかと聞くと、それもだと、答える。(換金して貰おうと、持ってきた。)

30分うろついた後バンクに行く。1ドル=2.99leiだ。たった100ドル交換するのに、パスポートのコピーを取られ、3枚の紙にサインさせられた。

出る時やっと覚えたルーマニア語、“ムツメスク(thank you)”と愛嬌を振りまいたら、途端に小難しい顔をして押し黙っていた人たち(ガードを含め)の顔が綻び、“ムツメスク”と返して寄越した。

久しぶりに清清しい気持ちで部屋に戻る。

また眠ったりテレビを見たりで、午後までグズグズしていると電話がかかってきて、”ガイドのアンドレだが、今晩の食事のためレストランにお連れします、”と言う。”待っていたのよ、“と言って急いで支度をして階下に行く。

ロビーの真ん中で3人の男共が話しをしていたが、それと解って私の方を向く。

歩み寄って、General Toursの人?と聞くと、えっ?と聞き返した。General Toursから委託されて、こちらではまた別な旅行会社が取り仕切っているらしい。

兎に角私の名がリストにあったことだけは確かだ。

ガイドのアンドレはまだ20代のようだが流暢な英語を喋る。他の二人はアメリカ人で、一人〔6,70代〕はカリフォルニア、もう一人(4,50代)はニューヨークから来たという。

他にまだ3人居るが、今日は出られないと言っていたと、アンドレは私たち3人の先に立って、待たせてあったミニバスに連れて行く。

近くのレストランで、ドライバーのニックだと紹介した大男(60代)と共に席に着く。

 

席に着いた途端、ブカレストに着いてからの不満をぶちまけた。でも80leiは妥当だ、予約は結局あったのだね、と言われ、黙らざるを得なかった。

空港からホテルまでのガイド付き交通費は払い込んであったので、せめてタクシー代くらい払い戻して貰えるかと、聞いても、アンドレはボスに聞いて見ないことにはと、言葉を濁した。ガイドは確かに定刻に来て待っていたというのだから、仕様がないか。遅刻は誰の故でもないのは明確であるが、旅行社によっては払い戻してくれることもあるのを承知の私は、一応交渉してみたのだ。

 

Mrs Reikoのルーマニア ブルガリア紀行

                        ルーマニアブルガリア紀行 

 

                           2009年  5月13日~25日

 

5月13日

 サンデイエゴ発午後1時42分の飛行機が45分遅れて出発。ユナイテッド航空では珍しいことだ。

4時間あまりの飛行の後、カリフォルニアより2時間進んでいる時差のシカゴに到着した。

午後8時45分発ミュニック行き飛行機の出発まで後20分程しかない。

多分間に合わないだろうと思いながらも、これに乗り遅れると、ミュニックからブカレスト行きの飛行機やホテルの予約まで変更しなければならぬので、この広いオハラ空港の国内線から国外線乗り場まで、リュックを背負い手提げを持ちながら、必死で“動く歩道”を走り、エスカレーターを駆け登り、やっと捕まえた電動車に乗せて貰って出発時間すれすれにゲートに到着。

 

ルフトハンザ航空のゲートではいかめしい制服を着た大男たちが5,6人立って雑談していた。

フランクフルトに行くのかと聞かれ、パニック状態の私が自動的に、そうだ、そうだと、肯くと、ボーデイングパスを見た一人が、ミュニックじゃないですかと、笑った。

さすがゲルマン民族の航空会社、勤務する者たちは昔風に言うと、6尺豊かな美丈夫ばかりで態度も恭しい。

これが昔の私なら、見た眼の良い彼らにクラクラッときたところだが今は違う。

外見より中身が大事だ。

 

機内の席に着いた途端5分後にドアが閉まり、エンジンが唸りを上げ、飛行機は空港内をゆっくり動き始める。

定刻きっちりである。さすが時間に正確なドイツ人と、おおいに感服して窓際の席から外を眺める。

鋭い稲妻の閃光が引っ切り無しに走る夏の東海岸特有のthunder stormがたけなわである。雨は一時止んでいるようだが所々に水溜りが残る地面は濡れている。

やがてまた雨が降り始め、稲妻と豪雨の中、飛び立てるのであろうかと、不安になる。それまで当ても無く空港内を走り回っているかのようであった飛行機がピタリ止まり、機内アナウンスが始まった。

Thunder stormが収まるまで飛び立てないと、キャプテンが説明する。さもあろうと、乗客は納得して文句を言う者もいない。

 

空港を走り回り疲れ果てた私は、待てば海路の日和とやらで、壁に凭れ、コックリコックリ始める。

1時間ほども寝たであろうか、またキャプテンの声で眼が覚める。

外は相変わらずの嵐だ。燃料節約のため、エンジンを止めると言う。

止まった途端、エアコンも停止だ。それからまた延々1時間、ファンも動かぬ機内の温度はどんどん上昇する。

ドアくらい開けろと叫びたくなる。乗客中にも苛立ちの声がそろそろ上がり始める。

隣の客(40代の白人男)もモゾモゾ落ち着かぬ。

2時間以上経過後、やっとエンジンがスタートされ、飛行の準備が開始される。

隣の男が拍手する。

外は大分収まったとは言え、未だに稲妻と雨が見られる。私がシカゴに着く前から始まっていたのであるから随分長い間荒れ狂っていた嵐だ。

サンディエゴ発の飛行機が遅れたのもその故であろう。順繰りにみな遅れたのだ。

離陸後の飛行機の回りを稲妻がしつこく走る。もういつ死んでも良いなんて言ったのは嘘だ。その中の一つが当たらぬよう、脇の翼を見つめながら神に祈った。

ようやっと陽光に満ちた積雲上に出る。シートベルトのサインも消え、飛行機全体まるで車の中のように平穏だ。

ドイツ語訛りの英語でキャプテンが、約9時間半でミュニックに着く予定と伝える。

9時間半!ロスから日本へ飛ぶ時間と同じ。もっと近いと思ってた。

プラスチックの袋入りの遅い夕食が出る。

まずい。でも添乗員の態度は柔らかい。大きな体の男女の添乗員は愛想が良い。

みな訛りの強い英語で喋る。(ドイツ人は英語がペラペラと思っていたが。)

 

時折、キャプテンのアナウンス、飲食物の配布などで眼を覚まされるが、ウトウト眠り続けているうちにミュニックに着陸。

約3時間のdelay.  

次の飛行機はとうに出てしまった筈。慌てても仕様が無いので悠々と降りる。

下りた途端に”新型インフルエンザ検査所“と書かれた小さなブースが見えた。

誰もいない。誰も止めれらていない。止めるならサンデイエゴから来た私を一番に止める筈だが、誰もなんとも言わぬ。そういえば、サンデイエゴの空港からこっち、マスクをした人も見かけなかった。アジヤと違って暢気なことだ。

全体鉄筋とガラス張りの白とグレーに塗られた空港は病院のようであり、草花の陰さえ見えぬ。清潔好きのドイツ人の国民性か。

またもや長いこと歩いて、ブカレスト行き飛行機のカウンターまで行き着く。

変更の手続きがある筈と、サンデイエゴで貰ったボーデイングパスを見せると、カウンター嬢は、それでオーケーだとニッコリする。

安心して、duty-freeの店等見て歩き、サンドイッチとオレンジジュースを買って、空席に座り食べる。

ロンドンやパリと違い、ブカレストに行く人はあまりいないのか、ガランとした感じ。

ところが、いざゲートがオープンとなると、どこからともなく続々と人が押し寄せてきた。

負けじと頑張ってゲートに達すると、ボーデイングパスに“待った”がかかった。新しいボーデイングパスが必要だと言う。だから言わんこっちゃない。来た時見せたじゃないかと内心ブツブツ。

 

新しいボーデイングパスを手に並んだ時には、もう半数以上の人たちが出た後だ。

示された、行く手の階段を下りると、ロックされたガラス戸のある誰もいない階下の踊り場で行き止まる。

標示もないまま、戸惑い、側のアラブ人らしき男に聞く。同じくブカレストに行くというその男は、多分バスが迎えに来るんだろうと言う。訳が解らぬまま階段にまで溢れた、今では相当数になった旅行者たちと待つこと15分。

バスが来た。ガラス戸が音も無く開く。

バスの脇に立つ運転手は無愛想で、”ブカレスト行きのバスはこちらです”とも、“お待たせしました“とも言わない。

何もかもオートマチックは良いが、少しは旅行者の身になってくれって言うんだ。

不安とイライラで過ごした15分間、ぐったり疲れる。

標識とか案内がもう少しあっても良さそうじゃないか。誰もが通勤でミュニックの空港を毎日利用するわけでもあるまいし。

2時間ほど飛ぶと窓際の席からルーマニアの地が見え始めた。山国の日本を思い出す懐かしい景色だ。

地上に降り立った乗客を乗せたバスは15分ほども走って空港の税関に辿り着く。

受け取る荷物の無い私は真っ直ぐ歩いて税関関所に向う。

途中currency exchangeがあったので、100ドル交換する。

パスポートを見せたりしてなかなか暇のかかる所だ。

その後トイレに寄ったりして、ようやく関所に着くと、皆もう出てしまったのか、誰も旅行者は居ない。それとも私が早過ぎたのか。

欠伸をしているような官吏にパスポートを見せゲートを通り抜ける。誰もなにも言わぬ簡単な税関だ。

ロビーで、多分もういないであろうと思った迎えのガイドをもう一度眼で探していると、一人のオヤジさんが寄ってきてタクシーはどうだと聞く。

ヒルトンホテルまでいくらだと 聞くと、18レイlei(約6ドル)だと言う。

物価が安いと聞くルーマニアにしても、安いもんだと思い、18レイだねと念を押してから彼のタクシーに乗り込む。

途中物珍しさに魂を奪われ、左右を見ているうちに30分ほどでホテルに着く。

2レイはチップにでもと、20レイ差し出すと、オヤジは慌てて、80レイと紙に書く。それじゃエイテイーン18じゃなく、エイテイ80じゃないかと彼の発音を責めるが後の祭り。

見栄っ張りの私はそれでも10レイのチップを加え90レイ渡す。これではサンデイエゴのタクシーと値段が同じだと、騙された思いでルーマニアの第一印象は良くない。

続く

コロナ休館

 

明日から休館になるという図書館に行ってきました。

三月まで一カ月の休館で貸し出し冊数は40冊との事。

40冊と言われてもね~

イカーでもないのに、どうやって家まで持っていくの。

でも、一カ月は本は借りられないので、持てるだけ持って(6冊)帰って来ました。

先ず読んだのは「総理の夫」原田マハ

これは面白かった。

日本を救えるのは相馬凛子さんしか居ない!切実に思いました。

頭脳明晰、正義感が強い、信を貫く心身の強さ、しなやかで美しい女性、何処かにこんな女性(偏見だが、私は男性より女性の能力を買っている)居ないだろうか。

二冊目は、主婦が突然思い立ち南極の調理隊員に応募する、三度目に合格して一年間

南極で調理隊員として働いた生活記録。綿貫淳子著「南極ではたらく」です。

限られた空間で過酷な仕事をこなす越冬隊員の生死にかかわる真剣な働きぶりが紹介されて感動しました

選ばれた隊員達は、高度な知識、熟練した技術、能力のほかにも、円満な人格とでも言うのか人格的な成熟度も加味されて選抜されているのではないかと、思いました。